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发表于 2016-7-28 12:21:02
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心霊写真は、観光や記念写真あるいはテレビドラマや映画撮影など別の目的で写真を撮影した場合に、意図せず偶然写り込んだものと、交霊会などで霊能者が呼び出した霊やエクトプラズムを記録するために意図的に撮影するものがある。前者は、事故現場や自殺の多い場所、人が集まる場所などで写りやすいといわれ、心霊写真と呼ばれるものの中には墓地や滝、絶壁、過去に死亡事故を起こした中古車などを被写体にしたものも多数存在する。その多くがこうした因縁話に関連付けられ見られることが多いことから、不安や先入観によって、単なるレンズフレアや後述のシミュラクラ現象(または輪郭誘導現象)、被写体の角度とカメラアングルの位置関係から人体の一部が消失したかに見える写真を霊の仕業と思いこんでしまう心理によるものが大半である[1]。
また、心霊写真を集め、専門家や霊能者を自称する人々のコメントをつけた本も多数出版され一大ビジネスに発展した時期があった。現存する心霊写真の中で日本最古だとされている明治12年撮影の、横浜の保土ヶ谷で天徳院という真言宗の寺の住職を務めていた小山天領という人物を写した写真には、小山の背後に撮影時には存在しなかったとされる女性らしき人物像が見えるが、小池壮彦氏の著書『心霊写真』(宝島社新書)によれば、この写真を撮影したのは三田弥一という横浜の写真師で、単なる二重写し(多重露光)の可能性が高いといわれている。背後に映った霊とされる女性をこの写真師が生前撮っていたためである。三田は写真館の客寄せの道具として、この写真を店頭に飾っていたが、それを売ってほしいという客が現れたため高値を付けたところ、10日間で300枚も売れた。このように、日本でも明治期から、現在心霊写真と称されるものがすでにビジネスとして存在していた[1]。
19世紀に撮影された心霊写真には、写真を見慣れた現代人の目にはあからさまに稚拙なトリック撮影と見破ることができるものがかなりある。
意図せずに撮影された心霊写真は、職業的なカメラマンから見ると、レンズフレア (ハレーション)やガラスの映り込み、フラッシュの反射などアマチュアが犯しがちな技術的な失敗であることが多い。また、フィルム送り不良による多重露出の場合もある。
例えば、赤っぽい幕のような物はレンズフレアであり、近くに強い光源があると発生する現象である。一眼レフカメラであればレンズフードを使用することにより防げるが、フードを使用しないときやコンパクトカメラを使用した時などによく発生する。 また、車のウインドウやブラウン管のディスプレイに光が反射すると周りにある物体がそこに歪んで映るなどして、顔などが複数写り込んだように見えることも多い。
デジタルカメラや携帯電話(スマートフォン)のカメラ機能の普及により、機械本体や記録メディアやプリンターの不具合や設定ミスにて異常な状態の画像を表示・印刷した物を心霊写真と勘違いする場合もある。
心霊写真の一種として、オーブと称する物もある。これはフラッシュを発光した際にストロボ光が空気中の水分・ホコリなどに反射し発生する現象である。右記の写真では、最上段のものがレンズ若しくはレンズフィルターに付着した水滴が乱反射を起こす現象で、夜間、露が降りてきたときなどに特に発生しやすい。また、空気中で結露した水蒸気が湯気となりフラッシュ光で乱反射を起こすことがあり、特に地下からの水がわき出るような所や滝の近くでは夏場などによく発生する現象である。
心霊写真の中には捏造されたものがあり、1989年には小学館の女性週刊誌『女性セブン』で心霊写真の捏造が発覚し編集長が解任されている[2]。
テレビ番組『特命リサーチ200X』(日本テレビ系)、『USO!?ジャパン』(TBS系)などで心霊写真の作り方がいくつか紹介され、特に後者では投稿で任意に顔や肩の手や巨大な歪んだ顔を既存の写真に貼り付ける手法が公開された。(#人為的な「心霊写真」のトリックの節を参照)。上記で報告されたアマチュアによる人為的ミスによる虚像撮影映像が心霊写真と主張されていた可能性がある。
また、心霊写真ではないかとされる写真の被写体が、木や岩など自然の造形物であることが多く、この場合木々や岩場の複雑な陰影が見方によって人の顔に見えることが多く、写真を撮ったり撮られたりしたものがそのことを気にする事例が多くあった。人間の脳は、3つの点があれば顔に見えるようにプログラムされており、これをシミュラクラ現象(類像現象)というが、これが大半を占めるケースがしばしばみられた。
心霊写真の歴史[ソースを編集]
実用的な写真技術の発明は1839年フランスの画家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが開発した「銀板写真法」が最初である。1884年に写真フィルムが発明され、写真技術が大衆化する前に、「心霊写真」は登場した[3]。
1862年、アメリカのボストンで交霊術師として知られていたガードナーがある写真屋が撮影した自分の写真に12年前に死んだ従兄とよく似た姿が写っていることを公表した[3]。
最初の撮影霊媒であるウィリアム・マムラーの「心霊写真」は驚異の的となり、彼のスタジオには人々が殺到したという。しかし、マムラーの「心霊写真」は不正なものであるとの告発により裁判で訴えられた。公判では写真界の有力者たちが「重ね写し」する手法について証言した[3]。
また、その後「心霊写真」はヨーロッパでも注目を集めた。1874年、フランスのパリの写真館のビュゲーが「心霊写真」を発表し、大評判となった。しかし、ビュゲーも写真制作における詐欺行為のかどで逮捕され、裁判にかけられることとなった[3]。ビュゲーは公判において「二重露出」という方法を使っていたことを白状し、一年間の禁固刑と500フランの罰金刑を課せられた。この刑が確定した後も識者を含む多くの人はビュゲーの霊能力を信じ擁護したという[3]。
発明直後から「写るはずのないものが写る」といういわゆる「心霊写真」が多くあり、一時大ブームとなった。当時の心霊写真は現在のそれと異なり、非常に鮮明に「霊」が写っているのが特徴である。肖像写真においてもどちらが「被写体」でどちらが「霊」か見紛うほどに鮮明であったという。
そのため、心霊写真を偽造する写真師も多く現れ、多くの偽造心霊写真もあった。しかし、当時は写真における「ピクトリアリズム」という一種の偽造的手法で写真芸術を作るという手法があり、偽造そのものに対してさほど大きなアレルギーはなかったと推測される。
日本で初めて心霊写真を撮影したというのが1879年(明治12年)の三田弥一のものである。さらに1909年(明治42年)になって作家の羽化仙史こと渋江保が日本国外の心霊写真研究を日本に紹介した。ただしこの頃の日本では心霊写真とは言わずに幽霊写真などと言っていた[4]。このように心霊写真自体は第二次世界大戦前から存在したが、当時は写り込んだ人の姿を死んだ身内などと解釈し、大切にする風潮があったようである。戦後、カメラの一般家庭への普及に伴い、旅行先などで撮影した写真に「霊が写っている」と騒がれる事例が増加した。
1917年7月、イングランド北部の寒村、コッティングリーに住む二人の少女が妖精と戯れる写真を撮ったと大きな話題になり、心霊研究家のエドワード・ガードナーや心霊主義に傾倒していた小説家のコナン・ドイルらが本物と認めた。しかし、66年後の1983年、姉妹は絵本の妖精の絵を切り抜いて作ったものだと告白した[3]。
詳細は「コティングリー妖精事件」を参照
1922年には「心霊写真」も蔓延を憂慮していた手品師らが「神秘委員会」と称するチームを作り、当時評判を呼んでいたバン・コーム、デーン夫人などの「心霊写真家」らのトリックの多くを暴いた[3]。
日本で有名になったのは1970年代になってからで、女性週刊誌や主婦向けのテレビのワイドショー番組、つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』など少年雑誌で取り扱うようになった。1974年(昭和49年)からは二見書房で恐怖の心霊写真集シリーズを出した中岡俊哉が第一人者となっていった。心霊写真は岩の上や茂みの中に顔が見える、不思議な光が写っているといったもので往々にして不鮮明であるため、一般人には真偽の判定が難しく、宜保愛子や織田無道、池田貴族といったいわゆる心霊研究家による鑑定というシステムが成立した。
また撮影された「霊」は通常、撮影者・被撮影者とは無関係であるため愛着の対象とならない。1970年代に中岡俊哉は心霊写真に因縁や祟りはないとしていたが、1980年代になってからは転換し、撮影者・写真の所有者に災い(霊障)をもたらす存在という言説も流布していく。1980年代前半には下火となるが、1986年(昭和61年)以降再び女性誌で心霊写真の記事が掲載されるようになりブームを迎えた。
しかし21世紀に入りデジタルカメラが普及するに従い、フィルム送りのミスによる多重露出がなくなったこと、受光部がフィルムカメラよりコンパクトなためレンズフレアやゴースト(レンズフレアの一種で光の輪や玉のように見えるもの)等の暗室内面反射が減ったこと、レンズがコンピュータ設計され精度が格段に向上していること、オートフォーカスによりピンぼけなど発生しにくくなったこと、自動露出の高度なプログラム化により光量不足がなくなったことなどのカメラのハイテク化がいわゆる心霊写真を駆逐しつつあると考えて良いだろう。近年では、写真編集機能を搭載したフォトレタッチ系画像編集ソフトウェア(市販のPhotoshop、フリーのGIMPなど)により、一般個人でも比較的簡単に写真を加工できるため、心霊写真を捏造し、ネタとして楽しむという趣旨のウェブサイトも見受けられる。
心霊写真とは、それまでの日本の歴史上の概念にない新しい霊の現れ方であると歴史研究家の原田実は主張している。それまで日本で霊というと「誰にも姿が見えない霊」「誰にも姿が見える霊」「祟るなど因縁のある者にのみ現れる霊」の3つしかなかったが、肉眼で見えなかった霊がカメラという特殊な技術を通して見えるようになったというのである。原田はこの特殊な技術で霊が見えるというのが霊能者という概念を生み出したとしている[5]。
漫画家の西岸良平は、著作『鎌倉ものがたり』の主人公である一色先生に、幽霊は精神的存在であり人の目に見えてカメラでは写らないのが自然だと語らせた。
人為的な「心霊写真」のトリック[ソースを編集]
二重露出
テーブルの下にエックス線発生装置を仕掛け、それが映像を結ぶあたりに現像皿をセットする。
種版の裏面に発光物資を接触させ、印画紙に像を写す。
光を照射するとしばらく発光する化合物を隠し持ち、数秒間、種版に接触させて写す。カメラのレンズの蓋に発光体を仕込んでおく方法もあった。
心霊写真および心霊映像において、ベランダのない窓の外に人が立っていたといったパターンがあるが、これは奇術でも十分説明がつくものである。等身大の人形(あるいは首だけのもの)を屋上(あるいはその上の階から)吊るすといった単純なものであり、そうした肝試しの仕掛けを知らない人間が、後になってからカメラで確認した時のリアクションや反応を楽しむ、いわゆる悪い悪戯で行われるものである。前述のような諸々のトリックより単純であり、誰にでも可能である。
画像編集ソフトウェア(フォトレタッチ)で編集する場合、写真を数枚用意し、顔の部分を切り取ってレイヤーで重ね、半透明化させる。
出典[ソースを編集]
^ a b 超常現象の謎解き「心霊写真」
^ 「編集長解任、デスクおよび担当編集者は停職処分に─『女性セブン』心霊写真ねつ造事件の顛末」『創』1989年12月号、創出版。
^ a b c d e f g 安斎育郎 『霊はあるか』(講談社 2002年9月20日)ISBN 978-4062573825
^ 原田実『と学会レポート 原田実の日本霊能史講座』楽工社、2006年、324頁
^ 原田実『と学会レポート 原田実の日本霊能史講座』楽工社、2006年、289頁-296頁
参考文献[ソースを編集]
浅羽通明「D・・Eは逢魔の時間――複製技術時代の心霊写真!?」『別冊宝島92 うわさの本』宝島社、1989年
飯倉義之「<霊>は清かに見えねども――「中岡俊哉の心霊写真」という<常識>」『オカルトの帝国 1970年代の日本を読む』一柳廣孝編著、青弓社、2006年
関連項目[ソースを編集]
心霊現象
コティングリー妖精事件
念写
霊魂
幽霊
亡霊
地縛霊
浮遊霊
生霊
エクトプラズム
オカルト
デジタル画像処理
パック2 不定期で心霊写真や怪奇現象についての特集を組んでいた
スタジオ2時→ワイドYOU→ごきげん2時→きらめきワイド→レインボー (テレビ番組)→ちちんぷいぷい (テレビ番組) 不定期で「心霊写真の謎を暴く!!」というコーナーがあった
2時のワイドショー 不定期で心霊写真や怪奇現象についての特集をした日があった
USO!?ジャパン
奇跡体験!アンビリバボー - 過去にしばしば心霊写真の特集を行い人気を集めた。 |
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