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スチュワーデス怪死事件とは【未解決事件】

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发表于 2015-12-6 16:36:31 | 显示全部楼层 |阅读模式
BOACスチュワーデス殺人事件(ビーオーエーシースチュワーデスさつじんじけん)は、1959年(昭和34年)、英国海外航空(BOAC、現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(スチュワーデス)が扼殺され、遺体となって東京都杉並区で発見された事件。犯人が特定されないまま公訴時効が成立、未解決事件となっている。
出典
BOACスチュワーデス殺人事件 - Wikipedia
英国海外航空(えいこくかいがいこうくう、英語: British Overseas Airways Corporation 略称:BOAC)は、イギリスに存在した国営航空会社で、現在のブリティッシュ・エアウェイズの前身の会社である。
1959年(昭和34年)3月10日朝、東京都杉並区の善福寺川で、BOAC(英国海外航空会社)の独身スチュワーデスの武川知子(27歳)が遺体で発見された。

スチュワーデス・・・1997年(平成9年)6月18日に改正、1999年(平成11年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法により、現在、求人誌などの募集欄では「スチュワーデス」“stewardess”などの偏った性別の表現ができなくなり、「フライトアテンダント」“flight attendant”や「客室乗務員」という名称に変更されている。

この辺りの善福寺川は幅10メートルほどあったが、子どもが川に入って魚とり遊びができるくらい浅い。その川の中央部で遺体は仰向けになって、顔や手、胸部、大腿部が水面から出て浮かんでいた。被害者はグリーンのツーピースの下に人絹ブラウス、白の人絹シュミーズ、白のブラジャー、白のコルセット、白メリヤスパンティに、足底の擦り切れたナイロン靴下をはき、コルセットの靴下吊りは靴下に止められており、服装に乱れはなかった。

警察の検視の結果、死因は溺死で自殺と思われたため、行政解剖の予定で東京監察医務院に送られたが、のちに、他殺の疑いが浮上して、急遽、司法解剖に切り替えられた。遺体を慶応大学付属病院に移して解剖を行なった結果、絞殺と判明した。膣内からO型または非分泌型、さらに、パンティの局部附着部分からA型またはAB型の、それぞれ別人の精液反応が検出された。

知子は前年12月、BOACがコメット旅客機航路の開始に際して、初めてスチュワーデスに採用した日本女性8人のうちの1人だった。ロンドンの本社で現地教育を受け、翌1959年(昭和34年)2月27日に帰国したばかりで、2週間後の3月13日には初搭乗する予定になっていた。

知子は遺体で発見される2日前の3月8日午後3時ごろ、東京都世田谷区松原の寄宿先から「駒込にいる叔父の高橋五郎方の誕生祝いに招待されている」と言って、外出したまま行方不明になっていた。しかし、その予定は全くなかった。

外出してからの知子の行方は捜査の結果、判明しなかったが、最終的に参考人として、捜査線上に浮かんだ人物は、高潔を旨とするカトリックの宣教師のベルメルシュ・ルイズ(当時38歳)というベルギー人の神父だった。カトリックは世界の宗教の中でも最も保守的で、戒律の厳しい宗教として知られている。その神父がスチュワーデス殺しの参考人になったことで、この事件は世間の注目を一斉に浴びることとなった。

ベルメルシュは農家の長男として生まれたが、カトリックの司祭(神父)になるため、1948年(昭和23年)5月8日に神学生として来日し、目黒区碑文谷(ひもんや)のサレジオ修道会に所属し、同会の神学校に神学生として学び、1953年(昭和28年)に司祭の資格を得ていた。その後、同じ敷地内にある帝都育英学院の英語の教師になったが、6、7ヶ月勤務して、サレジオ会の布教事業をしている杉並区八成町のドン・ボスコ社に転属して、事件当時はその副社長として会計を担当していた。

サレジオ会は世界各国に教会、修道会、学校、記念事業団体をもつカトリックの一派で、イタリアのトリノに本部があり、イエズス会やマリア会など、他のカトリック各派のような日本での長い宣教の歴史はなかったが、戦後、積極的な布教活動で急速に勢力を拡大してきた宗派として知られていた。

ドン・ボスコ社は、ボスコという聖者の名にちなんだ、サレジオ会の社会事業団体のひとつだった。日本での布教活動の拠点を拡大するため、イタリア本部から資金、海外援助物資、寄付などが送られ、これらを基金として布教のための図書の出版、販売を主な事業として活動を続けていた。

ベルメルシュ神父には、以前から修道会関係の保母や看護婦と関係があったという噂があった。遺体で発見された知子はBOACのスチュワーデスになる前、カトリック信者だったこともあって、中野区鷺ノ宮(さぎのみや)にあるサレジオ会が経営する聖オデリア・ホーム乳児院の看護婦として住み込みで働いており、ここでベルメルシュと知り合った。2人は原宿駅前の「菊富士ホテル」という連れ込みホテルに入ったという事実も確認された。

警察はベルメルシュの取り調べを行なった。教会との約束で、弁護士とバチカン市国大使館の一等書記官が立ち会った。初日の調べは、のちに吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件で犯人の小原保(こはらたもつ)を自供させて一躍名をあげた “落としの名人”平塚八兵衛・部長刑事が担当した。吉展ちゃん誘拐殺人事件についてはこちら

取り調べは3日間、延べ30時間に及んだ。その間、取調室にはコーヒー、お茶やジュースなどが運び込まれた。ベルメルシュが口にした茶碗やコップに付着した唾液から血液型を割り出す手筈になっていた。ところが、ベルメルシュは警戒してひと口も飲まなかった。警察はトイレにも仕掛けをして、尿の採取の準備をしていたのだが、ベルメルシュはついにトイレにも一度も行かなかった。

だが、警察の「報告書」には、<被害者の膣内に精液が認められ、膣内容の血液型は「O又は非分泌型」と判断されたが、ベ神父の唾液から血液型を調べたところ、やはりO又は非分泌型で矛盾がない>と記されており、いつの時点、どのような方法によるものか不明だが、警察はベルメルシュの血液型を突きとめていたことになる。

ベルメルシュは警察の取り調べに対して、最後まで知子との肉体関係を否認し、事件当時の完全なアリバイを主張したが、状況証拠は揃っていた。知子の男性関係は、以前からかなり乱れていたが、事件当時はベルメルシュ以外の男性とは交際はないことが分かっている。

ところが、同年6月11日午後7時半、警視庁による事情聴取がまだ終わらないうちに、ローマに転属になったという理由で、ベルメルシュが突然、羽田発のエールフランス機で本国に帰ってしまった。

警視庁の幹部は「全然、連絡を受けなかった。ベルメルシュの帰国はまことに遺憾である。しかし、参考人であるが、逮捕状が出ているわけではないので、これを止める方法がなかった」と発表した。深い疑惑を残したまま、こうして捜査途中のまま迷宮入りになってしまった。

しばらくして、ベルメルシュは「身代わり犯人」で、知子は “謀略” の犠牲になって殺されたという奇怪な噂が流れ始めた。噂の背景には、ドン・ボスコ社の性格とBOACの性格、そして両者をつなぐ線であった。

ドン・ボスコ社はカトリックの一派だったが、戦後日本の社会で、数々の経済的不正事件を起こしていた。1951年(昭和26年)、ララ物資やサレジオ会本部から救援物資名義で運ばれてきた各種の統制物資を横流ししたとされる事件(闇砂糖事件)の他、翌1952年(昭和27年)には、日本に運んできた闇ドルをレート360円を無視して400円程度で日本円に換金し、巨利を得ていたとされる事件(闇ドル事件)容疑などがあった。これも布教や教会施設を建設する資金作りのためだった。ベルメルシュはドン・ボスコ社の会計主任であり、こうした事情を最もよく知る人物のひとりであった。


ララ物資・・・ララとはアジア救済連盟のことで、第2次大戦後に疲弊した日本、朝鮮を援助するため、1946年(昭和21年)にアメリカで設立された団体。同年から1952年(昭和27年)の救済打ち切りまでに日本に送られた物資は総額400億円に及んだ。バター、缶詰、小麦、衣類、靴に至るまで様々な品が送られた。1947年(昭和22年)から始まった学校給食もララ物資によるところが大きかった。



日本は戦前からプロテスタントの勢力が強く、カトリックにとっては日本は未開発地であり、特にサレジオ会は後発ということもあって資金作りに精を出した結果、こういった経済犯罪に手を染めたと見られていた。それは、サレジオ会のみならず、当時の他のカトリック各派も同じようなものであった。

一方、当時のBOAC香港回りの極東空路が、こうしたカトリック日本布教団の資金輸送路になっていた。横流し事件を起こした救援物資も闇ドル事件を起こした闇ドルもBOAC極東空路によって運び込まれたものだった。他にも、たとえば、知子殺し事件の約半年後の1959年(昭和34年)の10月には、BOACのスチュワーデスのメリー・王(ワン)が化粧箱を二重にして宝石や金を密輸し、800万円以上の利益をあげていたり、翌1960年(昭和35年)3月には、麻薬などの密輸に関係したという理由でBOACの極東空路のスチュワーデスやパーサーら関係者127人が一度にクビになるという事件があった。

知子は試験の合格圏に入らず、しかもBOACの採用規定である20〜25歳という年齢の枠を越えていた(知子は27歳)にもかかわらず合格した。また、知子のロンドンでの訓練期間中、「単独行動が多く、早朝急いで出かけることがあった」「手紙のようなものを運んでいた」「ロンドンでは何かおびえた感じがあった」といった同僚スチュワーデスの証言もあった。

以上のことから、知子はドン・ボスコ社の会計主任と愛人関係にあることもあって、ドン・ボスコ社とイタリアのサレジオ会本部をつなぐ密輸ルートであるBOACの運び屋に仕立てられようとしたのではないかと推理された。知子は執拗に運び屋になることを強要されたが、それを拒否したことによって、何者かが、秘密がもれるのをおそれて殺してしまったのではないか、と。
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