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バックナンバー > 第4号 > 特移扱 -細菌実験のための拉致、逮捕-

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发表于 2016-10-21 18:43:58 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 我是夏雯静 于 2016-10-21 18:48 编辑




 ハルビンを東南に出はずれたところに平房という拉浜(らひん)線上の駅がある。この平房の南方の広大な耕地の上に、見るからに陰惨などす黒い高大な建物があった。その四周には、高い塀があって、厳に外界と遮断しており、さらにその外側には、鉄条網が張りめぐらされていた。汽車の中からこの建物を見る者に、まず奇異な感じをさせるのは、この建物に、不釣り合いな、高い煙突が、中空に聳え立っておることであった。これこそ防疫給水部の仮面をかぶった細菌研究所、石井部隊であった。


 ここは軍事特別区域であり、要塞と同じく、関東軍司令官の許可がなければ何人も足を踏み入れることのできない秘密境であり、敗戦と同時に日本軍は、その秘密のバクロを恐れて、これを爆破してしまったのである。

 日本帝国主義は、細菌と毒ガスの使用を禁止する国際条約に署名することを拒絶した。彼らは安あがりの細菌と毒ガスを、もっとも有効な殺戮手段として、早くから東京の陸軍軍医学校で、細菌攻撃の準備を進めるとともに、「満州医科大学」に、中国人民を材料とする実験拠点を作っていた。この陰謀を指導していたものこそ、人類の敵石井四郎であった。

 九・一八(昭和6年9月18日のこと。満州事変が起こった)の後、天皇は、細菌攻撃を大規模に準備するため、七三一部隊、いわゆる石井部隊の設立を命じた。

 傷を負った野獣の最期は、この上もなく凶暴野蛮なものである。1942年1月、石井四郎は、細菌実験の状況を見るため平房に行った関東憲兵隊司令官原守(はら まもる)と、同司令部第二課長吉房虎雄(私)にたいして、つぎのように語った。

 「細菌攻撃の第一の特徴は、効力が偉大であることである。鉄による砲、爆撃は、その周囲一定の範囲のものを殺傷するだけであって、傷ついたものもすぐ回復して、ふたたび戦闘に参加することができる。ところが、細菌戦は、人から人へ、村から村へと、効力圏を拡大するばかりでなく、その害毒は、人体深く食い込んで、死亡率は、砲・爆撃にくらべて非常に高い。また、いったん傷つけば、回復は、きわめて困難で、ふたたび戦闘に加わることは期待し難い」

 何と血に飢えた鬼の姿ではないか。また彼はつづけた。

 「細菌攻撃の第二の特徴は、鉄の少ない日本にとっては、もっとも適当な戦争方法であり、経費も安いことである。まだ研究せなければならぬことが多いが、材料が不足で思うようにならぬ」

 吉房(私)は、なるほどそうだ、よい話を聞いたと、腹の底からうなずいた。そして細菌戦争準備に協力することが、大平洋戦争が始まったばかりの、「重大時局」におけるもっとも大きな憲兵の任務の一つであると考えた。

 原は帰り道の自動車の中で、「どうだ、よいものを見たろう」と吉房(私)に言った。吉房は、「そうです。ひじょうに大切であるから、帰ったらすぐ命令を出して、石井部隊への協力をいっそう強化することが必要だと思います」と言ったら、原は「そうだ、そうやれ」と即座に命令した。

 人間性とか良心とかの一かけらも残っていない日本憲兵にとっては、人道主義や国際法規は、何の痛痒も感じなかった。

 九・一八以後、日本帝国主義は、東北(満州)では「厳重処分」といって、現地部隊の判断一つで中国人民を、勝手気ままに惨殺することが公然とゆるされていた。だが、後から後へとつづく抗日烈士の抗争によって、この「厳重処分」も、1937年、表面上、禁止しなければならなかった。

 その後、関東軍司令官・植田謙吉、参謀長・東条英機、軍医・石井四郎、参謀・山岡道武および関東憲兵隊司令官・田中静壱、警務部長・梶栄次郎、部員・松浦克己らのあいだで、秘密裡に、この「厳重処分」にかわる中国人民虐殺計画が押し進められていた。それは、なるべく簡単に、無制限に、中国人民を細菌培養の生体材料として手に入れることであった。

 1937年末、軍司令官は「特移扱規定」という秘密命令を出した。その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。

 1941年8月、新たに、関東憲兵隊司令部第三課長として着任した吉房中佐(私)は、大佐に進級するのに差しつかえては困ると、一生懸命「成績をあげる」ことを考えていたが、石井部隊見学を機に、「特移扱」を増加するにかぎると思いついたのである。そして、それに都合のよい「国境防諜」や、無線探査などを強化する命令を出して、各憲兵隊を督励したばかりでなく、賞金や賞状を出すなど、いろいろ方法をつくして特移扱を増加するよう要求した。

 吉房が主任として出した命令にたいし、隷下の憲兵隊長は、餌を求めていた豹のように食いついて来た。憲兵は血まなこになった。そして「功績」をあげて、「賞状」や「賞金」をもらい、「進級」し「栄転」した。

 1941年、鶏寧憲兵隊長堀口正雄は、半載河分遣隊長・津田准尉が、将校に進級する手段として、国境付近の善良な中国人民3名を、機密を探知したとデッチ上げたのを、1943年、奉天憲兵隊特高課長小林喜一は、日本軍の情況を探知したとの理由をもって逮捕した愛国者二名を、「逆用」しようとしたが、これに応じなかったので、また1944年、牡丹江憲兵隊長平木武は、漢奸の造言によって中共の情報部員であるとの理由で、部下の今別府(こんべっぷ)少佐が逮捕して、長期の残酷な拷問を加えて歩行できないほどの傷を負わした青年の始末に困ったあげく、それぞれ、特移扱にした。

 1940年、佳木斯(チャムス)憲兵隊長であった橘武夫中佐は、他人よりも早く大佐になる、しっかりした土台をここでつくらねばならぬと考えていた。自分の利益にかけてはあくまでも目さきの利く彼は、この地区が、従来から救国活動の根拠地であることを種に一芝居打とうと考えた。彼は新京で分隊長をしていたころ宗教関係、とくに「在家理(信仰中心に集まっている秘密結社)」を深く研究していたので、これから手をつければ相当数の人を反満抗日分子としてデッチ上げに成功すると考え、特務に命じてこの方面の関係者として数十名のブラックリストを作ることができた。

 そこで、彼は、一挙にこの数十名の平和な人民を逮捕して、あらゆる拷問を加えて見たが元より無実のことだから彼が欲するような結果が出るはずはなかった。そこで彼は、はじめから胸の奥に計画していた憲兵の奥の手、「特移扱」を持ち出して、十数名を石井部隊に送った。このいわゆる「優秀な成果」が物を言って、彼は憲兵隊司令部の課長や大佐になる基礎を作った。

 1944年8月、鶏寧憲兵隊長となった上坪鉄一中佐は、国境憲兵隊の「成績」をあげるには、特移扱を最大限に利用することが、もっともよいやり方であることを知り抜いていた。中佐に進級したばかりの彼は、ただ将来の栄達を明け暮れ考えていた。その年の11月はじめ、ついに彼は、軍事情況を探知し、また、反満抗日運動をおこなったとの理由をデッチ上げて、平陽に居住する善良な農民張王環女史とその父親を中心とする15名を逮捕した。

 上坪はこれを何とか「もの」にしなければならんとあせりながら、部下の尻をひっぱたいた。平陽分隊長曾場中尉以下30名の憲兵は、一ヶ月あまりにわたってロクに食物も与えず、睡眠もとらせず、あらゆる凶悪な拷問を加えたが、何の事実も発見することはできなかった。上坪はたまりかねて、みずから平陽に行って、直接拷問を指揮した。

 張女史はほおが落ち、髪は乱れ、蒼白になった顔は、傷だらけで腫れあがっていたが、ただ、「ソ同盟に行って、中国の農民の死に瀕する苦しみを訴えただけだ。何が悪いか?」と述べるだけで、ほかに一言も発しない。

 また、その父親の老人は、顔に血のにじんだ青ぶくれが二つ、痛々しく腫れあがって、人相もまったく変わってしまっているが、「おれが生まれた中国で、中国人の将来を心配することがなぜ悪いか。どんな理由で逮捕したのか?」と毅然たる態度で言いはなち、確信にみちた底力のある眼光は、鋭く光っていた。

 この愛国の情熱に燃える態度にふるえあがった上坪は、もう一カ月にもなるからここらでけりをつけねばならぬと焦ったが、これ以上どんな拷問を加えても無駄なことをさとらないわけにはゆかなかった。だが、これほどひどい拷問の傷痕のあるものを釈放するわけにはゆかないし、また、法廷には事実があまりにも薄弱である。いわんや、「15人を検挙した重大事件」だと司令官に報告した手前からして、どうしてもこの事件を、自分の「成績」としなければならない。それには石井部隊に送るにかぎると考えたあげく、張女史とその父親も含めて、拷問傷の大きなもの6人を「特移扱」にして石井部隊に送り、そのほかは、渋々ながら釈放した。

 このように、特移扱をしようとする憲兵隊は、「丸太何本送る。」とか「荷物何個送る」とかいう記号をもって、ハルビン憲兵隊に連絡した。

 その記号に該当する数の愛国者は、ハルビン駅でハルビン憲兵隊に引きつがれて、さらにハルビン特務機関に送られた。そこの留置所で、ふたたび瀕死の拷問を加えられたあげく、深夜特別の輸送自動車で、最後の地獄、石井部隊に送り込まれたのである。

 こうして、憲兵が特移扱にした中国の愛国者は、1942年の1ヵ年で、少なくも150名以上に達し、そのほか特務機関と偽保安局から送る愛国者を加えて、1937年以来、約9年のあいだに、石井部隊で虐殺された愛国者の数は少なくも4000名におよんでいる。

 この4000名の愛国者は皆、1942年1月、私が見に行ったあの石井部隊の一室で、無惨にも殺されて行ったのである。あの時私は、石井と原の後から、オズオズしながらくっついて行った。

 石井部隊の玄関から、何回か厚い丈夫な扉を開けてはいって行くようになっている、幅1メートル50、長さ15メートルぐらいの廊下の中央から右に行く通路があって、その両側に、鉄格子のついた留置所がずらりと並んでいた。その中にペストを感染さすところがあった。

 その第一番目の留置場では、中国の労働者風の、薄紺の服を着た四〇歳前後の男があお向けに寝たままペストを感染させられていた。薄暗い光線を受けて、目をつぶったままの青白い顔は、蝋細工のようだった。動けないように縛りつけてあるのか薬でねむらしてあるのか分からないが、ちょうど屍室の死体のようであった。

 その隣の留置所には35、6歳になる、骨と皮に痩せてしまった男が、後手に縛られてすわっていた。

 ゴム製の手袋と外皮と靴をつけてマスクした軍医が、その男の、一握りほどしかない股を押さえつけて、蚤に食いつかせてペストを感染させていた。痩せた肩から落ちそうになった、ボロボロの薄い破れ服の間から見える骸骨のような胸には、直径一寸近くの潰瘍が五つ、痛そうにカサブタを作って、胸いっぱい赤く色どっていた。

 「これはペスト菌を感染さした痕ですよ」と石井が説明した。

 「ペスト患者の特徴は足元がふらつくことですよ」と石井はつけ加えた。

 軍医に革の鞭でひっぱたかれて立ちあがった男は、二、三歩フラフラッと歩いたかと思うと、枯木のようにドターンと倒れて、ウーッと長いうめきをあげた。

 廊下は突き当たってすぐ右に曲がった。曲がったすぐのところに、手錠と足錠をかけられた35、6歳の、農民風の三人の男が、両膝を立てて、その上に両腕を置いて座らされていた。3人とも痩せ衰えているが、憎悪に燃え立つ6つの瞳は、射るように私たちを見上げていた。

 その目は薄暗い窓の明かりを受けて、鬼気をともなって私に迫った。私は背中に冷水を浴びたようにおののいた。

 「これは凍傷実験をやったのです」と石井が説明した。5本の指は第2関節から先が腐れ落ちて、その切れたところは、赤色と乳白色が入り混じってドロドロになって腐れ、ただれていた。これは凍傷後、零度の水と体温ぐらいの湯につけて処置して、その結果を実験したのである。

 無限の痛恨と堪えがたい痛みをこらえて、両手を抱えるようにして坐っている3人の目は、いまにも飛びかかりそうな形相で石井をにらみすえていた。

 廊下を3メートルぐらい行って左に曲がると、すぐ解剖室の入口に出た。3人の軍医が頭をすりつけて何かのぞき込んでいたが、石井を見ていっせいに敬礼をした。

 幅3メートルぐらいの室の真ん中に大きな解剖台があり、その上に人間の胴体が置かれていて、肋骨が一本一本はっきりと見え、血がポタリポタリ滴ってドス黒く光っていた。

 頭蓋骨が断ち割られて、脳みそが出たままの頭が、胴体の右側に転がっており、バラバラに切断された手と足は、室の右隅に放り投げてあった。生臭い臭いがプンと鼻をついた。

 「解剖した死体はあの竈に入れて焼いてしまいます。臭いがしないように、煙突はとくに高くしてあります。この解剖室で働いていた軍医で、気違いになったのがありますよ」と、石井が冷ややかな笑いを浮かべて説明した。

 こうして、4000人の愛国者は、あるものはコレラ、ペスト、チフス、赤痢その他いっさいの細菌を植えつけられて殺され、あるものは生きたまま解剖され、その他のものは、凍傷実験をやられたり、生きたまま神経を抜きとられたり、トーチカ爆破の実験に使われて爆破されたり、小銃弾傷の実験で毒殺されるなど、この世において、これ以上ありえないあらゆる苦痛を強いられて殺されていった。

 あの高い煙突から、毎日毎夜、白い煙が大空に吐き出されてゆく。あの白い煙の中に、日本帝国主義にたいする無限の憎しみと恨みをこめて倒れていった愛国烈士の、無言の厳粛な抗議がひびいている。あの白い煙は中国人民の勝利と人類の幸福を築く尊い礎石となって、人類の歴史の上に永遠に日本帝国主義の罪悪を刻みつけている。

(よしふさ とらお  中国帰還者連絡会会員 57年5月没)

【略歴】
1897年 長崎県に生まれ、
1921年8月 陸軍士官学校卒業。
1932年5月 憲兵に転じ、
1944年8月 平壌憲兵隊長となり敗戦しました

 本件は、私が関東憲兵隊司令部員「第三課長」時代のものであります。

註記

偽満州国で憲兵を勤め、一九四四年三月の大連事件で逮捕した中国の愛国者四人を「特移扱」としてハルビン平房に移送した三尾豊氏は、各地での証言活動で、慙愧をこめて「特移扱」に対する認識を次のように語っている。

 七三一部隊に移送された人々は、決して死刑囚などではない。死刑囚なら生体実験に使用しても良いというのなら、何も「特移扱」を作る必要はなかったはずだ。

 裁判所の判断で、事実関係が明らかになり、判決の下った人をマルタとして処理することはできない。「特移扱」とは捕らえた人を、正常な手続きを経ずに勝手に処理する権利を与えたものだ。

 非人道的な「特移扱」は、日本の傀儡国家満州でなければ実現不可能であったし、人間性を全く無視した日本の侵略軍にして初めて実現可能となったといえよう。

 憲兵が「特移扱」をしなければ、七三一部隊のかくも大掛かりな罪行は実現できなかった筈だ。従って憲兵の「特移扱」と七三一部隊は手を携え共同して残酷な殺人行為をおこなった。私(憲兵)の罪行は決して「ただ、送っただけ」ではないのだ。
 1942年8月8日,哈尔滨市警察局给哈尔滨道外警察署文件,记载了一名前苏联人被“特别移送”,档案左侧有“特移扱”条形章。

  编者按:

  今年是纪念世界反法西斯战争暨中国人民抗日战争胜利70周年,5月9日是俄罗斯卫国战争胜利70周年。据有关资料显示,在“七三一”部队人体实验受害者中,中国人最多,通常以“通苏”(即苏联间谍)罪名被“特别移送”,而前苏联人是“七三一”部队用于人体实验的第二大受害群体。在今年、今天这个特殊日子,让我们穿越时空隧道,一起去追忆那段惨痛的历史,愐怀那些曾经为了和平而奋勇献身的反法西斯志士们!

  最新调查

  “七三一”陈列馆民间发现“特移”档案上有前苏联人名字

  提起惨绝人寰的“特别移送”,人们眼前就会浮现出上世纪40年代,日军“七三一”部队曾在哈尔滨平房区打造细菌制造工厂的场景,当年关东军宪兵队等军警机关将抓捕的抗日爱国人士及其他人员秘密移交到“七三一”部队,他们将“特移”者称为“马路大”,即实验材料,用以进行冻伤、霍乱、鼠疫等人体活体实验,同时用人体制作标本。

  为完整揭露“七三一”部队曾在中国进行的泯灭人性的人体实验罪行,位于哈市平房区的“七三一”陈列馆的研究人员,在金成民馆长的带领下,十余年来对各地档案馆进行查阅、研究的同时,一直对民间保存的档案进行搜集。

  2014年,研究人员在收集到的一份“特别移送”档案中发现,1942年8月8日哈尔滨市警察局给道外警察署的文件中,记载着一名前苏联人曾被特别移送至“七三一”部队用于人体实验的史实,该人名字音译为阿列克赛·道劳吾奇,这是最新发现的“七三一”部队人体实验受害者中有关前苏联人的记载。

  最新数字

  93名前苏联人被用于活体实验成为中国人之后“七三一”第二大受害群体

  目前,根据已披露的档案中记载、“七三一”部队原队员证言等内容,可初步认定,在二战时期,被送至“七三一”部队用于人体实验的前苏联人至少有93名,虽然这个数字比目前档案中记载的被“特别移送”的1450名中国受害者少很多,但是已成为世界上最大细菌战制造工厂里的第二大受害群体。

  据了解,这93人中包括当年“七三一”部队原队员回忆和审判供词中涉及的77人,还有“特别移送”档案中记载的16人,其中有名有姓的共计9人。这些人中,有的是诺门罕战争中被俘虏的战俘,有的是在中苏边境负责谍报工作的地下工作者,还有一些是当年生活在哈尔滨的无辜平民,其中甚至包括妇女、儿童。

  当年,被“特别移送”至“七三一”部队的前苏联人主要来源于“保护院”。“保护院”是日本情报部管辖的一个对“越境入满者”进行审查、管理的特务机关,它主要收容、关押前苏联、蒙古军队战俘。这种“保护院”有两处,一处在哈尔滨市香坊一带,主要关押前苏联战俘;一处在内蒙古王爷庙西北,主要关押蒙古战俘。“保护院”尽管戒备森严,但其集中营里也曾发生过外逃事件。1945年6月,曾有两名前苏联人从中逃出。当时的哈尔滨香坊宪兵分队接到通缉令后,命令宪兵持“逃犯”的照片搜捕,结果最终在滨洲线的列车上逮捕了这两名前苏联人。日军宪兵队不加审讯,就把这两人和另外30多名前苏联人一起移送给“七三一”部队。这是“保护院”集中营向“七三一”部队移送的最后一批“实验材料”。

  据研究表明,“七三一”部队设立之初就是以对苏作战为主要目标的,当年“七三一”部队选址将中国哈尔滨作为大本营和实验基地,一方面因为东北土地上有可用于人体实验的“材料”,一方面是有利于对苏作战。所以,抓捕前苏联人用于人体实验,从根本上是“七三一”部队一项秘密工作。据“七三一”陈列馆相关负责人介绍,当年被“特别移送”的中国被害者多数被冠以“苏联谍者”的罪名,根本原因可能也归咎于此。但实际他们并不都是前苏联情报员,很多被害者在被捕前以各种方式参加过当地抗日武装或其他抗日活动,多为抗日地下情报人员。

  最惨回忆

  以预防接种为名向前苏联红军注射氰化钾

  “七三一”部队原队员越定男在接受调查取证时回忆:“大约在战败前两个月左右,中山和我去接收了一批‘马路大’,大约40多名,都是俄罗斯人。翻译在车外告诉我,带这些从领事馆领来的‘马路大’去做预防接种,请他们下车。我也以为要给他们进行预防接种,实际上,当时的‘实验材料’已达到饱和状态,不再需要他们,只是注射像铅笔尖那样少量的氰化钾,人高马大的俄罗斯人连声音都来不及出就倒下了,就这样把这四十多个人都杀了。”

  拿幼童进行毒气实验

  对分娩后妇女进行活体冻伤实验

  据“七三一”陈列馆的研究人员介绍,在被“特移”至“七三一”部队的前苏联人中,妇女和儿童占了一定的比例,据不完全统计,约有妇女儿童共十余人。一些“七三一”部队的原队员在回忆中都零零散散地提到过被“特移”的前苏联妇女和儿童,据他们供述,对待妇女,主要在无法抵抗的情况下,首先由部队人员用照相机进行凌辱,然后根据不同情况分别进行梅毒实验、活体解剖和冻伤实验。

  “1945年7月,当时有苏联母女二人被送到‘七三一’部队。”在事隔50多年后,“七三一”部队运输班班长铃木进回忆这段惨剧时供述:“我亲眼看见过被毒气毒死的苏联女孩。入狱时,小孩非常小,非常可爱,后来被毒死了。这在我脑海中留下了非常深的印象,每天睡觉的时候像幽灵一样浮现在我的脑海中……现在说出来心里好受多了。”

  在1944年冬季,“七三一”部队冻伤班对分娩不久的前苏联妇女进行了残忍的冻伤实验。据“七三一”部队原队员秦正氏供认:“首先让这位苏联妇女将手指浸入水槽中,然后让她拿出来在寒冷的天气里冻着,使之由激痛发展到组织被冻结,这是进行冻伤病态生理学的实验,进而用各种温度的水对此实施‘治疗’,改日重新反复地实施,终于使其手指被冻伤而坏死脱掉。”

  最勇英烈

  红军战士德姆琴科悬梁拷打至死不屈

  在“七三一”陈列馆殉难者长廊中,一个特别的名字“德姆琴科”十分引人注目,研究人员从苏军所缴获的日本宪兵队文件中得知,德姆琴科是当年被“特移”的一名坚强的红军战士。

  据相关史料记载,当年的前苏联红军战士德姆琴科被捕后,顽强地拒绝提供有关前苏联的任何情报,尽管哈尔滨特务机关把他的手脚捆绑起来,吊在屋梁上严刑拷打。德姆琴科最后被特别移送到“七三一”部队用于人体实验。

  据研究人员介绍,当年日军宪兵对待“犯人”远比“大纲”所规定的办法残酷得多,他们企图使“犯人”肉体上遭到不可言状的痛苦,时时刻刻都面临死亡的威胁。而“无悔改之意”、“无逆用价值”这些“特移”档案中的词语,就成为他们“特别移送”“实验材料”的依据。

  1985年8月,有3名澳大利亚籍的前苏联人专程到侵华日军第七三一部队罪证陈列馆参观,他们是哥哥尼古拉、弟弟沙沙及妹妹娜达沙兄妹3人。他们在“特别移送”名单中发现德姆琴科的名字时,悲痛万分。他们回忆说:“德姆琴科是我们的爷爷,他是苏联红军战士,在诺门罕战场上被俘后被押赴哈尔滨香坊‘保护院’集中营,不久就被送到石井部队里杀害了。我们是白俄罗斯人,我们的父辈早在修筑中东铁路时就侨居哈尔滨。听父亲说,爷爷被押到哈尔滨的消息是从苏联情报机关那里听到的,我们的伯父当时在哈尔滨做谍报工作,被日寇逮捕后也牺牲于‘七三一’部队。”

  无名英雄“魔窟”中带头奋起反抗

  引发监狱灌毒气惨案

  1945年,在“七三一”部队本部四方楼特设监狱中,曾发生过一场由前苏联人发起的英勇反抗斗争,“七三一”陈列馆的研究人员在向记者讲诉时称,由于“七三一”部队管理严密、有着“恶魔般”的系列酷刑手段,所以这种情况的出现是极为罕见的。

  1945年6月上旬的一天,特设监狱7栋的一间单人牢房里传出呼救的声音,被关押的两名前苏联人中,一人佯装身体不舒服躺在地上,另一个人在急促地招呼看守。当时在7栋巡查的特别班班员走到那间牢房后,发现这种场面并没有觉得可疑,因为对于特别班班员来说,这是司空见惯的事情,于是那个班员毫无防备地打开了房门。刹那间,倒在地上的“病人”猛地跳起来向班员扑去,另一个人则上来朝那个班员的印堂狠狠地击打过去,班员在挨了重重一铁锁(手铐的锁)后,失去了防备和反击能力,两人趁班员昏迷之际,抢走了牢房钥匙。眩晕片刻后,那个班员马上清醒过来,跑到走廊和楼梯隔开的铁门那里,钻出铁门,上了门闩。这样一来,第一道关口——牢房门打开了,但第二道关口——连接走廊和楼梯的铁门是通不过的。紧下来,那个班员按了警报器,并跑到特别班办公室报告了刚刚发生的暴动情况。与此同时,试图越狱的两名前苏联人迅速打开各牢房的铁门,催促“囚犯”们逃跑,一些被实验者也从牢房里跑了出来(当时,“七三一”部队为方便随时提取或补充“实验材料”进行细菌实验,为特别班设置了一把能打开所有牢房的万能钥匙)。接到报警后,“七三一”部队立刻派来增援人员,在楼内楼外将特设监狱团团围住。他们当场开枪杀害了领头的前苏联人后,拿出高压瓦斯瓶,接通胶皮管。然后,一名手拿胶皮管喷嘴、戴着防毒面具的队员,从他们竖起的高大的梯子爬到7栋楼房的最高层,接通特设监狱的换气筒,打开瓦斯阀门。随后,毒瓦斯通过换气筒从7栋二楼的各单人牢房的通风孔涌了进去,仅仅几分钟,监禁在7号监狱的人都被熏死了。据上田弥太郎供述:“当时是部队长石井四郎命令使用毒瓦斯的,把7号监狱的人全部毒死。为此,‘七三一’部队还曾受到关东军司令部的责备。”

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 楼主| 发表于 2016-10-21 19:09:10 | 显示全部楼层



前言 臭名昭著的731部队对外称日本陆军关东军防疫给水本部。名义上是负责关东军管区内的防疫、供水工作,但实际上是从事细菌、化学作战武器研究和实验的生化作战部队的研究机构。总部设在中国东北黑龙江省哈尔滨附近的平房。因为731部队的第一任长官是石井四郎(1892年~1959年)陆军中将军医,所以731部队也被称为石井部队。 731部队隶属于日本军队从事生物化学武器研究的“陆军军医学校防疫研究室”。从一开始,731部队就因其特殊性而高度保密。日本战败以后,731部队以向美军提供研究成果和数据为条件同美军进行内部交易,全部主要负责人都被免除了战争责任。后来他们大都成为日本医学界的骨干。1945年8月,前苏联红军出兵中国东北时,为了逃避战后正义的惩罚,731部队破坏了全部建筑物,杀害了全部人质,销毁了所有物证,并且主要成员之间建立起攻守同盟,绝对不向外界透露有关信息。所以,关于731部队的种种罪行鲜为人知。 以前,大多数人都认为731部队是日军细菌作战部队的研究机构。事实上,731部队是隶属于当时位于新宿的陆军军医学校防疫研究室,对外称陆军防疫给水部。该部队受陆军军医学校和陆军参谋总部的双重指挥。前者称研究室,后者称防疫给水部。除731部队以外,日军生化作战部队的研究机构分布在世界各地。如,北京的甲1855部队、南京的荣1644部队、广东的波8604部队、新加坡的冈9420部队等。731部队为上述各部队的总部,负责全面指挥。以731部队为核心的日军BC作战部队的研究机构与日本国内大学医学部之间联系十分密切,相互形成了一个巨大的网络,由组织地共同推进日军BC作战的武器开发和基础研究。 731部队在这些部队中的规模最大。所从事的研究也是极其特殊的。在731部队进行的各种研究和实验中,大量通过“特别移送”运来的中国人、俄国人、蒙古人和美军战俘被称为“丸太”,用来做各种人体实验和活体解剖,这种反人类的战争罪行在人类历史上屈指可数。根据战后前苏联和中国的调查,大约有3000多人被残忍杀害。 尽管国际条约禁止使用生化武器,但是,后来成为731部队长官的石井四郎通过对欧洲各国军事技术的考察,提出了日本应当发展生化武器,提高生化作战能力的观点,并极力说服军部设立了防疫研究室。对于一个试图使用生化武器的国家来说,为了防止敌人的报复,防疫也是非常重要的工作。这也是设立731部队的一个重要理由。 希望得到731部队实验数据和资料的美军,战争结束前与石井四郎为首的731部队干部进行接触,以731部队向美军提供人体实验的数据和资料为条件,免除了石井四郎等人的战争责任。在远东军事法庭上,731部队有关人员没有一人被起诉,没有一人受到正义的惩罚。实际上,石井四郎等人在与美军进行交易时,隐藏了731部队的大部分秘密,如,研究人员的组织网络,生化作战战术等最高机密。石井四郎充分预计到美军可能提出的要求,所以事先将731部队的部分研究成果交给美军,而将研究的全貌成功地隐藏起来。负责与美军谈判的是被称为石井四郎左膀右臂的内藤良一。 由于731部队撤退前销毁了全部证据以及与美军交涉时对研究成果的秘密处理,使得关于731部队的第一手资料很难找到。只有少量731部队相关人员的证词。近几年,随着各种关于731部队的资料被发现,731部队的犯罪事实真相逐渐露出水面。 许多日本人认为中国公开的731部队的犯罪证据(照片)许多在医学上那一理解,其中部分照片是误用或伪造。以此为由,否定731部队存在的日本人大有人在。出版发行日本作家森村诚一所著的《食人魔窟》一书的光文社也因此停止了该书的发行。《食人魔窟》一书删除了有关照片以后才得以重新出版发行。 但是,二战结束后,俄国哈巴洛夫斯克军事法庭采用大量证据,将731部队判定为专门从事鼠疫、霍乱、性病等生物武器和糜烂性、腐蚀性化学毒气武器研究的特殊部队。由于受到美军的保护,日本国内否定哈巴洛夫斯克军事法庭裁决的右翼势力十分嚣张。 石井四郎毕业于日本京都大学医学部。以731部队为代表的日本许多从事生物化学武器研究的人都是毕业于日本国内的最高学府。这些人战后基本上都没有受到惩罚,若无其事地返回各自的学校,并成为日本医学会的核心。因此,长期以来日本医学会内部无视731部队犯罪事实的倾向十分显著。近几年,随着在战争中直接参与过犯罪的人的引退,日本医学会内部这种倾向才有所缓和。 被称为石井四郎左膀右臂的内藤良一站后创办了医药企业绿十字,并聘请曾经担任过731部队长官的北野政次作为该企业的顾问。绿十字在1970年代末到1980年代初,使用血液凝固制剂(非加热制剂)治疗血友病,由于外国供血者中有许多HIV感染者,导致了大量日本血友病患者感染上艾滋病。绿十字因此成为被告。该事件也是引起日本国内舆论关注731部队反人类犯罪事实的重要原因。 731部队所进行的各种人体实验与纳粹德国在犹太人集中营针对犹太人所作的各种人体实验在性质上没有任何区别,两者一样都是反人类的。如果说有区别的话,那就是731部队所进行的人体实验内容更加多样、手段更加残忍、性质更加恶劣。此外,731部队的犯罪是有组织、有计划的国家犯罪。日本军队高层直到日本战败的前夕一直没有停止对731部队的支持和指挥。这才使得石井四郎等人能够把731部队的生化作战研究体系建设成规模空前的如此庞大。 731部队的研究成果被运用到实战中。日本军队在中国战场对中国军民使用了大量的生物化学武器。给中国人民带来了深重的灾难。但是,在对美军的战斗中日本军队从未使用过生化武器,有证据证明,在琉球攻防作战中日军曾有过对美军实施生化武器攻击的计划,但是害怕美军的报复,该计划最终没有实施。这一点同中国战场形成了鲜明的对比。 今天,日本国内仍有许多历史修正主义者已没有证据为由否定731部队的犯人类犯罪。日本政府也以日本与各受害国之间战后签订了战争赔偿条约和协定,在国际法上日本的国家责任已经履行为由,拒绝一切有关731部队的诉讼请求。 731的魔鬼没有受到应有的惩罚,那些受到非人待遇的冤魂死不瞑目。上帝何在?正义何在?只要731的魔鬼一天没有受到应有的审判,只要日本政府一天不道歉,我们就一天也不停地揭露731部队的罪行,让更多的中国人了解这段历史,让我们的子孙后代牢牢记住日本犯下的兽行。 关于731部队的物证保留下来的很少。因为战争结束前,731的魔鬼们为了逃避战后正义的惩罚,销毁了全部物证,只有部分实验数据和资料极其秘密地保存在美国。人们对731部队的了解只能通过少数有良知的原731部队的士官的回忆。森下清人是原731部队少年队第二期队员。1991年9月,日本大分县协和医院医师山本真在大分县协和医院对森下清人(当时63岁)进行了采访。以下是采访对话的全部记录。 一、加入少年队 山本:下面我想请森下先生把你看到过的事情,体验过的事情一一的讲述给大家。如果可能的话,我想请你从入伍以前,加入731部队少年队以前的经历谈起。首先,请问你是在哪里出生的? 森下:我出生在野津原。大分县野津原(现在的大分郡野津原町,位于大分市西边)。 山本:啊,是在野津原。在哪上的小学? 森下:大分的金池小学。 山本:什么时候进入731部队的? 森下:昭和17年(1942年)。那年头,年轻人可选择职业很是有限,不是进满蒙开拓团、就是做军服人员,再就是当兵。是在昭和17年3月29日那一天,我从大分高等小学,也就是今天的王子中学毕业后,当时职业介绍所的马场静夫所长是我们家的远亲,我同他商量,是去开拓团呢还是去干什么?但是很头痛。 山本:你是长子吗? 森下:我是家里的长子。除了6个兄弟外,其他全是女孩儿。当时是特殊时期,根本没想到要继承家业。我父亲也在官家上班,在市政府的土木建筑科工作。3月26日毕业那天,马场所长说有个好地方,问我去不去。我问他是什么地方,他告诉我说是满洲,那天晚上我考虑了很久,吃晚饭的时候,我告诉父亲说要去满洲,父亲说你还这么小,真是没办法,你要去哪就去哪吧。所以,第二天就去了门司港。 山本:你还不知道你要去满洲的什么地方吧?只知道做军服人员。我不太了解什么是军服人员,不是正规军人吧? 森下:不是正规军人。是军队的附属机关。但是工资是军队发给。 山本:分级别吗? 森下:分级别。共分4个级别。从下至上是庸员、雇员、判任官、高等官。高等官相当于校官。少年队都是庸员。 山本:你们到了港口后,很快就去了满洲吗? 森下:在下关等各地来的人等了两天。后来一个叫泷泽的班长来接得我们,然后一起乘船到了釜山。船摇晃得很厉害,大家都吐得一塌糊涂。我们在住在低舱,不知道是发动机还是螺旋桨的声音很大,我感到很难受。到了釜山以后,换乘汽车。是在晚上。 山本:当时你多大? 森下:14岁。高小刚刚毕业么。我们3、40个人。都是九州人。途中在新京(长春)停了一下,好像在关东军的军营了吃了一顿饭。 山本:在新京住了一晚? 森下:没有,吃过饭立刻就出发了。目的地是哈尔滨。 山本:到了哈尔滨以后,立刻就去了平房吗? 森下:是的。在哈尔滨车站,大家分别乘坐几辆军用客车向南驶去。道路是橘黄色的沙石路,尘土飞扬。到达终点时,高一期的学员出来迎接我们,在院子里就分好班了。 山本:一个班有多少人? 森下:30多人,我被分在三班,班长叫做井上精二。 山本:其他各班的班长的名字你还记得吗? 森下:啊,一班班长的叫高阶,二班班长叫藤泽,四班班长叫西泽。 山本:听说这些班长中有人很凶? 森下:那是一班班长高阶。他身高也就是1米60公分左右,好像32岁,身材虽然很瘦,但是枪打得很准,剑术也很高明。 山本:有教育队吗? 森下:教育队是园田部队。教育队中也有少年队。令人吃惊的是他们那里有枪架,看不出他们与正规军人有什么不同。



山本:你也很辛苦呀。 森下:那是。不过赚钱吗。一般都是白天去。731部队不能够夜不归宿。晚饭前必须回去。9点钟还要点名,不管有什么理由不回去是不行的。 山本:从这些是来看你们的生活与普通学生好像没有什么区别吗? 森下:是的。 山本:最辛苦的事情是什么? 森下:最辛苦的事是学习。学习令每一个人都不正常了。来之前还是个孩子,光知道玩,到这里以后,总是考试、考试什么的。有的时候在想来这鬼地方干啥。不过,印象最深的上卫生学科的时候记住的消毒与杀菌的区别。学科结束时教官问大家有没有什么问题时,我问:“教官,消毒与杀菌有什么区别?”还受到教官表扬了呢。当时教官的解释是,消毒只能杀除部分细菌,杀菌可以杀除全部细菌。 山本:有暑假吗? 森下:没有。但是,有旅行和野营,大家一起去。好像,第一年的时候是9月末。少年队全体学员乘卡车去大连。非常有意思。还记得途中在一片苹果园附近停车摘苹果的事儿。在大连还参观了203高地和旅顺军港。在哈尔滨还去过松花江。 山本:“松花江”是当地话吗? 森下:是的。您也去过吧?江中心有个太阳岛。少年队去过那里露营,钓鱼。钓了好多好多的鱼。江里的鱼太多了,真是咬钩。一个帐篷里住7、80个人,那种军用大帐篷,大家一起做饭一起吃。 山本:睡的是睡袋吗? 森下:不是,盖的毛毯。 山本:听起来很有意思。回国内地探亲吗? 森下:没有。但是如果父母去世的话,有一个月的休假。老学员有人修过假。好像有过那种事儿。谁的父母死了,学员的上级一起回国内地。 山本:啊,不让一个人回去呀?一年过得很快,逐渐地知道了你们所在的地方到底是个什么地方了吧? 森下:是的。来了6个月左右,开始学习卫生学,然后就是一些专业课。 山本:也了解到总部是干什么的地方了吧? 森下:没有。当时还不知道。 山本:老学员也没透露过什么吗? 森下:没有。绝对不说的。只是感觉到自己好像当上了卫生兵。因为学的都是包扎、三角巾的使用方法,还有消毒液的种类等。 山本:看过一些有关的书,说学员们将来都能成为医生这样的记述,森下先生也听过类似的说法吗? 森下:没有。我们当时是没有听说过。最多就知道是做军队服务生。但听说过,如果在部队努力学习的话,可以拿到中学毕业生的资格。 二、分配到总部柄泽班 山本:从什么时候开始离开少年队进入到总部工作的? 森下:一年以后的4月份。 山本:你当时的地位如何,你知道吗? 森下:知道的。我的地位是比较低的。 山本:也就是说是有分配的。你被分到什么地方? 森下:我被分到第3班,柄泽班。进入柄泽班以后做的第一件事就是做培养基。培养细菌。这些工作都是在无菌室进行。无菌室全都是被玻璃板隔离的,进入时对全身进行分无消毒,解剖的时候大家都戴上医生带的那种帽子,眼睛和口罩,穿上工作服,工作服的外面在船上胶皮防护服。 山本:还记得第一次穿上这种服装的感觉吗? 森下:嗯,谁是谁都不知道了。而且进入无菌室后,要穿着长筒靴在消毒液中消毒,一直浸泡到八分高的地方,然后是手套。对了,就像医生进行手术时的穿着一样,进去时还要进行喷雾消毒。然后才能碰培养皿。培养皿中装有十几根3公分长的铝合金容器,冬天用的时候还要加热。培养皿中有很多小洞,我们用搅棒搅拌里面的细菌。 山本:那必须做好充分的准备吧? 森下:是的。老学员、上级士官、柄泽少校都这么说。 山本:柄泽少校有多大年纪? 森下:50多岁,是部队中最严肃的一个人。经常发火训人。身材很高,但他的军刀与别人的不同稍短一点儿。他对人要求很严格,如果敬礼很随便的话,他会追上来打人,让你从来一词。对于直属部队的上级长官一定要立定敬礼,不立定敬礼是不行的。不是直属部队的上级长官可以在行进中敬礼。 山本:柄泽少校下面有几个教官? 森下:啊,比想象的要多得多,大约有20多个军医。 山本:这么大的规模呀。 森下:加上我们一共170人。 山本:也有当兵的吗? 森下:我们那里没有当兵的。我们和老学员各有50人。加上总部的人。柄泽班地上都铺上的瓷砖,大门的左侧是更衣室,在淋浴室喷雾消毒后,直接向左走,有个大锅,浸泡着寒天,再往前走时冷却室,还有稍暗的地方时保温室。房间大约是这个房间的2倍,四面全都钉上了铜板。门有这么厚。关门时声音很沉重。这种房间大约有12、3个,都装有空调,在里面培养细菌。 山本:每天从9点钟一直干到晚上吗?





、第一次见到“丸太” 山本:今天第一次说到关于“丸太”的事儿。你是什么时候听说过“丸太”的? 森下:实际上,我是听到之前先看到的。 山本:什么时候? 森下:这附近有放着许多翻斗车。从这里进去,在这里地方就是柄泽班的大门。有一天我推着翻斗车干活的时候,这扇门开着,是个铁门。我往里一看,看到有人正在搬运尸体,是解剖过的尸体。当时想过,哎,这是怎么回事。 山本:有多少人? 森下:嗯,一般是一个翻斗车装4个人,看出来车很重的。搞不清楚。以前也偶尔听说过“丸太”这个词。 山本:你知道“丸太”是什么意思吗? 森下:知道的。分到总部不久就知道了。 山本:见到“丸太”那是第一次。那是几月份的事儿? 森下:嗯,好像是7月份,7月末吧。 山本:看到“丸太”是什么感觉? 森下:那扇铁门在北侧,就是哈尔滨市区的方向。那时里边的人都不用手来搬运,都用在小轨道跑的翻斗车推,翻斗车上好像有个担架,直接推倒焚烧炉里。 山本:解剖过的痕迹看得清楚吗? 森下:看得清。人不动了吗,一看就知道死了。 山本:但是被解剖过的证据有吗? 森下:那可不太清楚。一般都盖个布单子,看太不清楚。 山本:能看出来是人吧? 森下:那个还是能看出来的。因为焚烧炉只有一处,一看就知道是为了焚烧尸体建的。 山本:请你讲述一下你当时的记忆,是4个人,对吗? 森下:当时大家都停下工作在那看。 山本:大家都没说话吗? 森下:当时静得很,说话声会很响的。 山本:有人推翻斗车吗? 森下:有。带着面具的队员,不是军人,是医生。 山本:那时看到的是几具尸体? 森下:两具。两具尸体摞在一起。一具斜着放在车上,另一具摞在上面。从高度上就能看出来。 山本:因为盖着块布,是男是女看不出来吧? 森下:是呀,那是看不出来。 山本:在那里是第一次看到吧? 森下:不过在少年队的时候,又是顺风吹过来的臭味,那种焚烧时的恶臭。以前从未闻到过的臭味。是一种很怪的臭味。 四、进入解剖室 森下:过了一个多月,柄泽班柄泽少校下边的军医,记得是个少尉让我去做试验的助手。所谓助手是军队用语,就是帮助做些杂务。让我去,还告诉我对这里发生的事情一切什么都不能说,这是秘密。我回答说明白了。 山本:是一个人吗? 森下:二个人。就是这个解剖室,在焚烧炉的旁边。 山本:你们到了解剖室时,解剖还没有开始吗? 森下:是呀,以为还没开始。 山本:解剖室是个什么样的房子? 森下:地上铺着瓷砖,白色瓷砖。没有见到尸体。到了以后,命令我们等着,等着命令。轮到柄泽班解剖时,都是柄泽班的人去做助手。没有专门的助手。解剖室也不是一个。有好几个解剖室,这个解剖室从几点到几点,每个解剖室的使用时间都不同。 山本:等了多长时间? 森下:嗯,大约是15到20分钟吧。 山本:等候的时候你们说什么话了吗? 森下:说了些闲话。啊,终于轮到我们了之类的。 山本:你们是不是有自己可以做大事的感觉? 森下:那到没有,以前也让我们解剖过一些小动物。 山本:终于轮到解剖人体了的感觉? 森下:就是那种感觉。 山本:你们两个人就这样一直默默地等候着? 森下:是的。 山本:15、20分钟后你们进入到解剖室里啦? 森下:那个负责解剖的老师已经进行了消毒,戴着口罩和眼睛。 山本:你们的装束不一样吗? 森下:一样的。以前说过的,戴上眼镜和口罩,经过了喷雾消毒。 山本:接下来就开始进行解剖了吗? 森下:不是,已经结束了。助手就是来收拾房间的。用水冲洗,然后再次消毒。把一些器具用福尔马林、酒精浸泡什么的。 山本:啊,让你们进去的时候解剖已经结束了。尸体还留在那里吗? 森下:整个尸体还留在那里。是有目的的。这个“丸太”被注射过什么,察看察看什么部位的,只是切开了需要查看的地方。 山本:你们把切下来的东西放进了培养基里了吗? 森下:不,那是后来的事情。当时就是收拾房间。 山本:请把当时的情形简短地讲述一下。 森下:血液流了一地,我们把血液冲干净后,喷上消毒液,进行杀菌。尸体就像刚才说过的一样,送去焚烧,负责焚烧的是别人。交给他以后再回到房间手势。多花些时间也没关系。然后做下纪录。肝脏、肾脏什么的。这些脏器一直放在那里,我们用3%浓度的盐水把它洗净,直到不流血以后,再放入福尔马林或酒精中。 山本:用注射器抽血吗? 森下:啊,不用,用一种特殊的泵把盐水注入脏器,盐水会把血液冲洗出来。然后放到福尔马林液体中,血就不流了。 山本:把脏器放到福尔马林里以后,你们的工作就算告一段落了? 森下:是的。最后把这些东西放到柄泽班的资料室内的架子上,并记下解剖的日期和解剖医师的名字。 山本:第一次进入解剖室时的尸体是个什么样的人? 森下:是个白种男人,俄国人,哈尔滨的俄国人很多。看上去很白,大约28岁到30岁左右。体格很健壮。手有这么大,长满了毛。胸毛也很多。非常男人味儿。身高轻松超过1米80。 山本:知道他以前是干什么的吗? 森下:那可不知道。从哪来的也不知道。 山本:那是几月份的事儿? 森下:那个时候是,第一次看到后过了两个月,是9月份吧。天气已经有点凉意了。 山本:还记得当时那个同事的名字吗? 森下:叫谷口。已经去世了。 山本:后来这种事情还有吧? 森下:是的。 山本:那种事情给你留下了什么深刻印象吗? 森下:为什么会是这样,都是些孩子的疑问。还有过要是三个医师解剖一个尸体,每个人解剖自己想看的地方,这样一个尸体不就够了吗?这种想法。 山本:为什么会有这种想法呢? 森下:柄泽班做过鼠疫病理的解剖,别的班也做过同样的解剖。如果一起来做,一次不就行了吗?为什么要做好几次呢。 山本:啊,有道理。 森下:进去的时候我们每次都得到不要把这里发生的事情告诉别人的命令,进去后就被带到一个像特殊食堂一样的地方,让你管够吃杨庚之类的东西。吃饱了以后,还发2、3瓶酒带回去。 山本:但是,第一次看到解剖很快就适应了吗? 森下:很快就适应了。 山本:因为能够吃到羊羹,是不是还很想去呀? 森下:不是,还是不想去。即使是能够吃到羊羹这点小小的诱惑,但是想一想以后的事情,还是不想去的。 山本:刚开始的时候是不是还是受到的打击很大? 森下:确切地说,是很不舒服。第一次看到流了那么多的血。 山本:每个月有几次? 森下:多的时候每周2、3次。但是不会是同一个医师。有时柄泽少校自己解剖,有时是从东京来的不认识的人在柄泽少校的指导下解剖。 山本:都是尸体解剖吧,人死了以后在解剖吧? 森下:当然了。在那之前就让他安静下来,然后带到别的房间里进行细菌注射,直到死亡为止进行观察、记录。 山本:你现在说的这些事情你都亲眼见过吗? 森下:嗯,我们就是这么干的。 山本:下面再将讲一讲这一带的事情吧。


五、感染试验 森下:基本上与跟解剖在同一个时期。 山本:这次需要说明的是要你们做什么记录? 森下:是呀,脉搏、鼠疫病的情况下要看看淋巴腺的肿大情况,用肉眼观察。首先要测一下身高体重。然后再送到那间玻璃房子里。 山本:是那间玻璃房子吗? 森下:把“丸太”放在这间房子里。在外面进行观察。 山本:一直到房顶都是玻璃吗? 森下:对,墙和窗户都是玻璃。房间也就是8到10个榻榻米那么大。外边摆了张桌子。 山本:中间是“丸太”? 森下:是的,有时里面也放张床,有时还有被褥。我们在外边观察里边的“丸太”多长时间才能倒下,一直做着记录。 山本:里边有厕所和洗脸池吗? 森下:没有那些东西。地上铺的是瓷砖。 山本:放几个“丸太”在里边? 森下:一般只放一个研究用的“丸太”。 山本:怎样进行调查? 森下:“丸太”进入房间以前先测一下体重。“丸太”都有自己的房间。从那里带出来后,有间隔离室。从隔离室带出来。 山本:没见过“丸太”住的小屋吗? 森下:没见过“丸太”的小屋。只见过把他们从隔离室带出来,送进观察室。 山本:是怎么带出来的?使用带轮子的病床吗? 森下:不是,他们都还能走路。 山本:给他们穿什么样的衣服? 森下:啊,都是全裸。 山本:都给他们带着手铐、脚镣吗? 森下:根据他们的凶暴程度不同而不同。 山本:还记得你第一次见过的那个人吗? 森下:俄国人,男的。40多岁,身材不高,体形稍胖。 山本:是个俄国人,有你来下命令吗? 森下:不是,有翻译。 山本:通过翻译下命令让他走,都带着脚镣。他也带着手铐吗? 森下:手上没戴手铐。 山本:他不太凶暴。 森下:还不如说是被控制住了。带他到我们这边来的人都带着手枪。 山本:啊,是军人啊。 森下:不是,都是军人服务人员。有时也有军人。 山本:交给你们以后,你们带他们进去,军人还跟着吗? 森下:是的,有4、5个人。在房间中给他们注射。 山本:他们都是全裸,你们穿什么衣服? 森下:为了防止感染,我们都穿着平实的防护服。 山本:当时的同事是谁? 森下:嗯,是小笠原。 山本:啊,你和小笠原参加试验,先测身高、体重。你们是一起进入房间吗? 森下:一起进去。 山本:谁来注射细菌? 森下:那是由负责解剖的医师来做。 山本:怎样进行注射? 森下:嗯,当时是静脉注射。刚开始的时候,根本不知道是什么细菌,当然了,细菌这东西繁殖的很快,所以只需要一点点。 山本:当时那个当做“丸太”的俄国人没有抵抗吗? 森下:我们有办法然他不能抵抗。比如,你老实一点的话很快就放你出去,或者说如果你不注射疫苗你会死的等等,通过翻译告诉他。这样一来,他们会很顺从地伸出手来让你注射。 山本:但是,我还是感到奇怪。 森下:是呀,我们出去以后提瞪着眼睛东看戏看的。 山本:细菌注射后你们就在外面观察? 森下:是的。有个作观察记录用的笔记本。需要记录的科目很多。比如过了几分钟,发生什么变化,几分钟以后,“丸太”坐了下来,几分钟后,躺了下来等等。 山本:他们发生了什么样的变化,你还记得吗? 森下:记得。忘了注射的是什么细菌了,首先注射后过了3、4个小时,他们的脸色开始变坏,然后就做了下来,过一会儿开始跪在地上,双手抱住头,这样呆了大约30分钟,然后就躺了下来,有的是仰着脸,有的是头朝下趴着,变换很快。 山本:这期间你们一直在观察吗? 森下:我们是轮班观察。一般是2、3个小时轮一次班,一直到他死去。我们一共6个人,每组2人。 山本:那个人死得算很快,他有没有吐血? 森下:没有。但是吐了些黄水一样的东西。我们给医师打电话联系。告诉医师说他吐黄水了,问怎么办。医师说,继续观察。 山本:后来呢? 森下:后来就很快了,大约过了10分钟他就不动了。 山本:快死的时候观察瞳孔了吗? 森下:那是由负责的医师进来观察的。 山本:一直做那种观察你的感觉如何? 森下:人很容易就死了。注射一次就死了。但是,我也想过我可不想受那种罪。 山本:人死了以后,是不是直接送到解剖室去? 森下:是的。我们会接到命令。好啦,终于结束啦,我有这种感觉。 山本:是立刻进行解剖吗? 森下:是的。立刻进行解剖。立刻把尸体放到带轮子的病床上,就是医院用的那种带轮子的病床,然后送进解剖室。 山本:你们就在外面等着,准备福尔马林、酒精之类的东西? 森下:不用,早就准备好了。因为有目的的么,医师想要做什么在就知道了,所以早就做好准备了。 山本:在等候的时候,你们不看解剖吗? 森下:看啊。那时看到了肝脏,一边的肝脏有三片,一边肝脏是两片相互重叠在一起的。哪个是什么呢?(注:肺)。 山本:你是说,你最初观察的那个俄国人死了以后,送去解剖,你一直在边上看着? 森下:是的。 山本:那时的那个医师叫什么名字你还记得吗? 森下:记不得了。 山本:医师的名字你们都知道是吧? 森下:都知道,标本上都写这名字。某某少尉,某某中尉。 山本:是个少尉或中尉就能做吗? 森下:不是。有执照的人才能做。不管你是军服人员,还是判任官,还是高等官,只要是柄泽班的人就向柄泽班长,也就是自己的上级写个申请,想做什么什么事情,需要一个“丸太”,请予批准之类的,如果得到批准,就可以做了。可以做自己想做的实验,但是试验结果是要报告的。 山本:等一下。你第一次看到的作试验的那个意识是个什么样的人?长得很高吗? 森下:嗯,1米65左右,比我们稍高一点,长得很瘦。 山本:解剖是一个人做吗? 森下:当时从东京来了几个年轻的从未见过的医师。现在看来就是实习仪式。一共4个人。 山本:那时你看到了吗? 森下:


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 楼主| 发表于 2016-10-21 19:11:38 | 显示全部楼层
七、年初的阅兵式 山本:到了冬天听说要阅兵的,那一年的阅兵式石井四郎在吗? 森下:是呀,我们去的时候731部队的长官是石井四郎阁下。 山本:我读过《食人魔窟》这本书。书上写的是1942年到1945年731部队的长官是北野政次。1942年是昭和17年吧,所以我想你去的时候731部队的长官应该是北野政次吧? 森下:北野政次这个名字倒是经常听说。 山本:你说1月1日阅兵的时候石井四郎来了,你没记错吧? 森下:没有,不可能记错的。石井四郎阁下就像照片上的那样,鼻子底下留着一撮小胡子。 山本:(指着《食人魔窟》中石井四郎的照片)还记得这张脸吗? 森下:当然记得,这不是石井四郎阁下吗。 山本:北野政次的长相还记得吗? 森下:记不得,我没见过他。 山本:(指着《食人魔窟》中石井四郎和他哥哥的合影)记得这张脸吗? 森下:记得,这是他哥哥,是高等官。军服人员的高等官。我见过他。是级别相当于校官。但不是均一。 山本:(指着《食人魔窟》中北野政次的照片)这是北野政次。 森下:啊,是吗,没印象。我们731部队的长官是石井四郎阁下。从刚去时的4月到第二年的1月,一直是石井阁下,他的周围都是一些了不起的人物。 山本:那么,那一年的阅兵式很冷吧?有零下30多度吧?你们是几点钟起床的? 森下:阅兵式是9点钟开始的。都穿着防寒服,戴着防寒口罩。当石井阁下训示的时候大家都把护耳掀开,扣在帽子上面的按扣上。 山本:听得清楚吗?他的声音很响亮吗? 森下:很清楚。有个麦克风。声音很响亮。 山本:他都说了些什么? 森下:以前我对你讲过的,军队的教育训令。 山本:没讲过什么特殊的话吗?例如,战况恶化,各位必须努力等等。 森下:那种话一句都没有。什么战况呀,部队工作的内容等,这些话一句都不讲。 山本:石井以外,谁还讲话了吗? 森下:哎,致祝词的。是教育队的园田中校。军服人员和军人分别站成两排,我们少年队在队列的最右边,左边是高等官。将校按照军衔高低排列,教育队的队长是中校,他站在左边。少年队各班的班长都站在各班队列的前面。班长们的前面是长屋教官,他是整个少年队的负责人。 山本:阅兵进行了多长时间? 森下:多长时间啊?很长,长的令人发烦。那么冷的天气,老是敬礼,很容易被冻伤。睫毛上都结了小小的冰溜,脸上全是白霜,耳朵冻得通红。你可能不知道,如果脚在鞋里不经常活动的话都能被冻伤的。 山本:第二年的年初,天空很晴朗吗? 森下:不是,那天在下雪,还刮着大风,从哈尔滨市区方向刮来。阅兵的日期是不能变的。山本:是呀,1月1日吗。不管下雨,还是下雪都要阅兵。 森下:不是,要是下雨就在63号楼里进行。 山本:地面都冻上了吧? 森下:冻得硬邦邦的。雪很薄,雪花也很小,细细的小雪。 山本:雪落在身上也不许拂一下吧? 森下:大家都立正站着,一动不动。军队么。在下面搞点小动作倒没什么,动作太大是不允许的。 山本:有没有人晕倒? 森下:那倒没有。大家都很紧张。 山本:完事儿后,有什么庆祝活动吗? 森下:庆祝活动由各队回去以后自己组织。有个炊事班满洲人做饭。每各班抽出四个人负责伙食值班,他们不参加阅兵,所以一回去就能吃饭。大家排成一排。 山本:到4月份就又过了一年了。你还是做细菌培养和“丸太”是工作吗? 森下:不是,从那以后就不再做与解剖有关的工作了。 山本:啊,那以后你们就不在解剖现场了。 森下:是的。柄泽班以外的都不在解剖的现场。 山本:啊,你是说其他的班都不在解剖的现场。你是昭和17年进入少年队的,昭和18年被分配到柄泽班,昭和19年还在那里。 森下:是的。昭和20年也在那里。一直到8月份停战前。中间从为换过班。分配的工作内容都熟悉了。如果换个班,比如去了八泽班的话,所有的一切都要从头做起。所以,根本不知道别的班在做些什么。大家都是这种状态。 山本:在你之后还有没有别的少年队被派来? 森下:有。每年都有。一直到昭和20年。每年的人数基本相同。 山本:高年级的学员去哪里? 森下:我们到了三年级的时候,没有上面的四年级学员。所以,这时候用这张地图来解释的话,就是成为这里的炼成队了。 山本:成了炼成队之后,工作内容改变了吗? 森下:没变化。但是我晋升了。 山本:少年队应该是军服人员吧。到了炼成队之后就成为军人吗? 森下:不变。军服人员还是军服人员。直到最后都是军服人员。 山本:从年初到4月有没有什么留下印象的事。 森下:啊,刚刚谈到了一点儿,少年队、判任官中有带家属的,他们有时会做黏糕,在63号楼。有30多个臼排成一排。正月前后开始煮了很多米饭,煮好的米饭放在盖帘上。 山本:什么是盖帘? 森下:嗯,怎么说好呢,满洲有一种用竹子编的食器,圆形的,上边可以摆东西的,叫做盖帘。很像日本的凉席。在上边摆上黏糕,外边很冷,一会儿就会就冻硬了。有时让你把它送到某各机关,路上把它藏在裤兜里,途中有很多防空洞,就把它藏起来。 山本:啊啊,有没有豆沙黏糕? 森下:没有,只有白黏糕。很容易坏的。机关里有豆沙黏糕。 山本:藏起来的黏糕,过后去取呀? 森下:是的。在壁炉上烤熟。很好吃。味道特别香。过一会儿会谈到的,第二年的11月份左右,安达那个地方有个731部队的特别演习场,离得很远。在那里进行细菌弹的空中爆破,看看细菌能够扩散多大范围。当时已经很冷了,当地獐子很多。昨天说过的,从培养皿中抽出来的菌棒,把它们排成一排,我们负责把它排成排。 山本:安达,日语也叫安达,在什么地方? 森下:哈尔滨北边。居民点很少的地方。那里獐子很多,好像是鹿科动物。用卡车驱赶一下,就跳出来一群,跳得很高,比卡车都高。有时会把你吓一跳。獐子跑得很快,开枪打都打不到。跑得太快了。到了晚上,狼开始叫唤,很恐怖。在那里呆了一周,住在帐篷里。在野地里找炸弹的碎片,没有细菌的,这样你就知道扩散的范围有多大。 山本:新年的时候,从内地有贺年卡寄来吗? 森下:有的。有的问候健康,有的问何时休假。关于战况的消息,就像被黑笔抹去了一样。就连住在大分的人被疏散到野津原这种事儿也被抹去了。 山本:不了解战况,知道日本已经很危险了吗? 森下:一点也不知道。我们还以为取得了胜利了呢。 山本:亲人去世,回内地奔丧的人有吧?从他们那里也没听到什么消息吗? 森下:嗯,没听到什么。也许没有多少地方像731部队这样执行命令这样彻底的吧。友邻部队在干什么根本就不知道,即使是同在一个柄泽班,因为有“丸太”的事儿,谁去了哪里都没人知道。 山本:还有其他一些班吧?他们都是今天要干什么,谁也不说吗? 森下:嗯,要是问的话,最核心的问题也不会涉及。如果涉及到了核心问题,就会被叫到班长那里,挨收拾了。决不是简单地打你几下的问题。要是有人敢顶嘴,班长就会进来,抡起蘸水的皮带,往死地抽你,直打得你满身是血。 山本:有人挨过这种打吧? 森下:有,有好几个人挨过。 山本:挨打的原因都是胡乱说出了工作的内容吗? 森下:说的人要挨打,问得人也要挨打。 山本:你挨过那种打吗? 森下:挨过。我的直接上级叫小板,经常训我们,今天*对不起,我说脏话了*地干什么了?不是跟你们说过,不许谈论工作的内容吗?等等。 山本:是不是有人告的状呀? 森下:不是。都是他在旁边听到的。立刻就被叫到班长办公室里罚站。立正站着,一动也不能动,倒下后必须马上站起来。如果遇到一个坏班长,罚让你占很长的时间。我们班的班长叫井上,是个很和蔼的人。自己一边留着眼泪,一边打我们。告诉我们要忍耐。我们也和班长一起哭,一边哭,一边挨打。倒下过2、3次。还是个孩子吗。 山本:小板也挨过打吗? 森下:没有。小板比我们高一级。我和一个同龄兵打架,被小板看到了,他就向班长汇报。 山本:啊,那是我理解错了。同你打架的人是谁? 森下:是佐藤正二 山本:那是哪一年的事儿。 森下:第二年的时候。那天大家都很饿,正说着一起蒸馒头什么的时候。 山本:佐藤在干什么呢? 森下:我们一起看显微镜,显微镜很多,排成一排,其中有1、2个看起来非常特别,我们也不太懂,就在那里猜是不是什么电子显微镜。 山本:佐藤是哪个班的?病理班的话,那就是冈本班啦? 森下:我也记得他是冈本班的。看显微镜的时候,要闭上一只眼睛的,我们这点知识还是有的,用一只眼睛看,用另一只眼睛看刻度尺。 山本:后来你就同佐藤吵了起来起来。被小板告诉班长了? 森下:是的。 八、从屋顶上看到的“丸太” 山本:以前你说到过,在院子里看到“丸太”的事儿,那是什么时候的事儿? 森下:被分配到柄泽班以后,二年级的第9个月,大约是在2月份。 山本:当时的情形还记得吗? 森下:记得。没有许可是不允许上房顶的,有一张禁令贴在墙上,就在楼梯哪儿。我当时还是个小孩子,好奇心很重,就在想为什么不让上去呢?越是不让上去,越想上去看看。 山本:楼梯没有用绳子拦起来吗? 森下:没有,只是支了一张木板,上面写着严禁无许可者上楼,下面是部队长的签名。 山本:你是一个人上去的吗? 森下:不是,不是,当时我们3个人一起上去的。我、和田清美和后藤祥太郎,都是从大分县来的老乡。 山本:跑着上去的? 森下:不快点儿上会被发现的。门也没上锁。 山本:从4层到5层,从5层就可以上到屋顶,没有锁? 森下:是的。有个铁门,出去就是7号楼的屋顶。 山本:好像不是7号楼的屋顶吧?应该是吕字号楼的屋顶。 森下:啊,就是这一带。从这里可以看两边都能看到。 山本:你们看到什么了? 森下:看到一些“丸太”在那。从屋顶上的暗处往下一看,这里有5、6个男人和一个女人。从7号楼的楼顶看不到其他的人。但是,这一带都是树荫,看不清楚。他们都穿着犯人服装,蓝色的,深蓝色的。冬天的棉衣。上衣和裤子连在一起的那种。 山本:女的也穿这种犯人服吗? 森下:不是,女的穿的是分上下的衣服。还有女的穿的衣服不是蓝色的,什么颜色我
九、“丸太”的押送 山本:那一年还有什么事儿给你留下了深刻的印象? 森下:是关于“丸太”吗? 山本:是的。 森下:啊,有一件事儿。我看到过一次“丸太”被押进来的情形。 山本:哎,“丸太” 被押进来的时候?是不是从哈尔滨用卡车押过来的? 森下:不是。没听说过用卡车押送,“丸太”都是用飞机押送过来的。那一次也是飞机。正好是个星期六的傍晚,天有点儿黑了,我们听到了飞机的声音,很大的声音。那时我们正在吕字号楼加班,正在收拾培养皿。北边的门是开着的,往外面一看,外面站着很多宪兵,排成一排。 山本:宪兵,还排成一排? 森下:是啊。站在大约有20米长的路的两侧。中间有八个人,被蒙上了眼睛,手绑在背后,用绳子拴成一串走了过来。 山本:8个人。你能确定吗? 森下:我用手数过的。一前一后2个人,两边有2个军服人员跟着。我们正在偷看的时候,被边上的宪兵看到了,他们冲我们挥手,让我们滚开。我们吓得赶紧向吕字号楼的西侧逃去。所以,后来的事情没看见。 山本:那八个人都是些什么人,有女人吗? 森下:都穿着中国服装,我想他们都是中国人。穿的都是自己的衣服。男的、女的我没看清楚。 山



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 楼主| 发表于 2016-10-21 19:12:32 | 显示全部楼层


本:他们肯定是“丸太”? 森下:肯定是。那条路正是通往关押“丸太”小屋的路。 山本:是用飞机押送过来吗?书上说,哈尔滨有个拘留所,这里的“丸太”不够了就从哈尔滨云过来,补充这里的不足。 森下:是用飞机运过来的。我们这有个专用机场,叫做吞龙的大机场。据说是从上海、重庆等地直接押送过来的。当然,也有从哈尔滨押送过来的。经常看到深夜和黎明时,机场跑道上灯火通明,飞机着陆时发出的巨大声音听得很清楚。从少年队的宿舍里都能看到。大家说,啊,又把 “丸太” 运来了啦。 山本:这些话我是第一次听说。谢谢你还清楚地记得这些事儿。我以前一直不知道运送“丸太”的方法。下面,请你讲一讲除了“丸太”以外,印象深刻的事儿。 十、军医柄泽少校 森下:是呀,还有那个大高压锅,大的不得了。蒸汽喷出时的声音很响,丝丝的尖叫声。小孩子听到那种声音都很兴奋,推着翻斗车那个跑啊。 山本:翻斗车的轨道距离可不短啊?在拐弯的地方又没有翻过车? 森下:翻过车。运送培养基的时候后要是翻了车那可不得了了。一般来说,因为培养基都比较重,速度很慢,很少翻车。如果翻车了要用铁棒撬回铁轨上。 山本:你也遇到过脱轨的事儿吗? 森下:遇到过。还装着装了40、45个培养基。当时我们4个人在推车,推着推着一下子车就开始倾斜,然后咣当一声就翻了过去。大家都吓了一跳。 山本:4个人,都是谁呀? 森下:啊,每次干坏事都有我。还有后藤、和田和谷口。都是大分县来的。 山本:那以后你们就多少小心点儿了吗? 森下:没有,还是老样子。都是孩子嘛。有时柄泽少校还到我们工作的地方视察。这里的光线很暗,有时我们正骑在翻斗车上玩,被他碰个正着。吓坏了。 山本:训你们了吗? 森下:你们这帮浑蛋!但是翻斗车还没法马上停下来,他就试图用脚顶着把车停下来。车正好停在他的面前。你们这帮浑蛋!想干什么?给我站成一列。然后用刀背敲打我们的头。很痛啊。 山本:当时也是你们那一帮朋友吗? 森下:是的。后藤祥太郎、和田和谷口。在那一年的夏天。 山本:当士,柄泽少校是一个人吗? 森下:不是。他带着部下。值班士官。胸前斜挎着佩带。挨了打以后,还要说,谢谢。 山本:过后还要惩戒吗? 森下:那到没有。还是护着自己班上的人嘛。他虽然经常发火,但是性格很爽快。有时候护着我们的时候也属于护独子那种。有时候我们去打扫将校军官的屋子,他的屋子里有香烟,高级香烟,烟盒上画着帆船那种。柄泽少校就问我,森下,你小子不是抽烟吗?我说,是。他就说,要抽别偷着抽,在我面前抽。我和谷口就点上一根抽。 山本:很香吗? 森下:那还顾得上香不香了。太紧张了。 山本:那时候,柄泽少校跟你们一边干活一边说些什么? 森下:是的,他问我们是哪的人,我们回答说是九州人,他又问我们,九州的哪呀?我们说,大分县,他好像也不太明白,我们又告诉他是在大分的别府,他才明白,说,啊,别府是有很多有名的温泉的地方。 山本:你们是去打扫房间的吧?房门上是不是写着柄泽少校的名字? 森下:是的,在门的左侧竖着写着柄泽少校室几个字。 山本:窗是什么颜色的? 森下:白色的。镶着磨砂玻璃。他的房间在总部的左侧,2楼的西侧,是个朝南的房子。房子是混凝土建的,外表用看上去像是砖砌的样子,但实际上是混凝土结构的,地板上铺着地毯,在上面走路有一种软软的感觉。颜色是? 山本:进屋的时候要脱鞋吧? 森下:是的。我们都穿着高腰鞋,脱了鞋穿着袜子进屋。屋里有个褐色的沙发,还有一茶几。柄泽少校的办公桌面对着窗户。我们进去后保持立正的姿势,柄泽少校对我们说,用不着那么正经,坐吧。我们回答,是。就坐下了。当时的火柴是那种黄磷火柴,在烟灰缸旁边的铁片上一划就划出火来,点上一颗香烟,吸了一口,从鼻子里把烟吐出来。柄泽少校看到后对我说:“你小子可不是一次、两次抽烟了吧?看你抽烟的样子很在行嘛。”我赶紧回答,“是”,“以前都是在哪抽呀?”我赶紧回答说,“报告,在什么什么地方偷着抽,从哪个哪个少尉的抽屉里借用的。”他说,“什么借用的?是偷的吧?” 山本:边上的谷口也一起抽了吗? 森下:抽了。大家都抽了。 山本:香烟在军人服务社里买不到吗? 森下:当时我们都未成年,不能在军人服务社买烟。香烟都是在哈尔滨的街上偷着买回来的,偷着抽。 山本:你经常抽烟吗? 森下:是的。抽得太多了,所以患上肺气肿。 山本:是吗?很有可能的。 森下:抽完烟以后,开始打扫卫生,整理一下房间,然后戴上帽子就出去了。对了房间里还有个书架,解剖学、细菌学等医学书摆得满满的。 山本:在房间里也穿者军服吗? 森下:是的,肩上有一颗银色的星。 山本:柄泽少校很严厉,他的体格是什么样子? 森下:体格很结实,个子很高,比您还要高一点。1米76左右。留着胡须,不太宽,但是尖端总是拧个弯,很精神。 山本:他的头发是不是比较少? 森下:不是。但剪得很短,属于比较软的哪种。 山本:这么说他不管是在家里还是在部队上都穿着军服? 森下:是的。还有一辆将校专用的轿车。 山本:能不能再给我讲讲第三年的事情?第三年你还是在柄泽班吧?有没有什么升级仪式? 森下:没有。都是自然而然地进入下一年级。 山本:仕工作地点也还是在吕字号楼吗?工作内容有没有变化? 森下:变了。解剖室的工作多了起来,经常进出解剖室。 山本:啊,以前主要是培养细菌,现在主要是过一些解剖室的辅助工作? 森下:是的。内容也有所不同。医师们做完解剖后,也允许我们动手了。“你们有没有什么想看的地方,想看就看吧。”我们就动手看看自己想看的器官。像大脑的内部构造,小脑的部位,还有大肠的长度等等。 山本:解剖大脑需要开颅的,开颅是医师们做吗? 森下:不是,医师们剖开腹腔的时候,不做开颅的。我们自己动手。模仿以前看的,从鼻骨到下颚,用锯切开。切开后头部就像水怪头上顶个盆一样。 山本:在观察室观察的工作到了三年级的时候就没有了吗? 森下:基本上没有了。只有少数几次。 山本:这一年当中有没有给你留下深刻印象的? 森下:有啊。第一次自己动手切开腹腔,看到了肠子的,摸着热乎乎的。 山本:被你们切开脑袋的“丸太”是被用作什么试验杀死的人,你还记得吗? 森下:那可不知道。但他体格看上去不错,可能平时吃得很好吧?大约35、6岁的样子。 山本:进入三年级以后,有没有去过7号楼和8号楼? 森下:没有。那里只有特殊警卫才能进去。我们不知道里面在干什么,直到战争结束前我们进去处理被毒气毒死的“丸太”时,才看到里面的样子。 山本:“丸太”在里面全都裸体,是你亲眼看到的吗? 森下:那时到了三年级的时候,自然而然地就知道了。 山本:是吗? 森下:我们认识那里的看守。 山本:但是,这本书里没有这么写呀? 森下:那是,我也没说呀。别人也不会说的,731部队的人嘴都很严。 山本:为什么要裸体关押呢? 森下:怕他们自杀。房间里冬天都有暖气。我们少年队住的房子里是壁炉。而且厕所都是冲水厕所。 山本:那么,有没有你自己没有亲眼看到,从看守那里听到事儿? 森下:啊,你又问这事儿啦? 山本:有没有什么给你留下深刻印象的事儿? 森下:啊,有一次我们去收拾垃圾,看见有一个中国女人,是用来做梅毒试验的。我想起来了。 山本:能不能详细一点儿? 森下:嗯,做解剖的是园田中校,教育队的中校。我们进去的时候梅毒试验已经结束,阴部已经被切开。 山本:那种实验是怎样进行的,你听说过吗? 森下:没听说过。阴部和肋骨被切开了。内部是怎样解剖的记不住了。但是面部没有被解剖。 山本:女人只有她一个人吗? 森下:是的。女人特别少。 山本:通常关押的“丸太”有多少?不多吧? 森下:是的。3、40个吧,最多不超过50。试验消耗掉的,很快就会补充送来新的。都是犯了间谍罪,该枪毙的。 山本:第三年的时候还有没有其他事儿? 森下:到了第三年,开始在无菌室做培养细菌的工作。 山本:馒头还作不作了? 森下:不作了。我们把做馒头的方法教给低年级的学员,他们做好后分给我们。

十一、少年队的闲暇时间 山本:到了第三年的夏天,你们都成为大人了。去哈尔滨上街时的事儿,能不能想起点儿什么? 森下:啊,特别臭。坐火车的时候闻到一股恶臭。是大蒜那种臭味和韭菜那种臭味混在一起的味道,非常刺鼻,想忘都忘不掉。进入第三年以后,可以自由外出了,我们经常从动物班借来马匹,骑着马去飞机场那边。7、8个人相隔一百米左右排成一排哄野鸡。那里有很多野鸡,一哄就飞起来,飞了三百多米就落了下来。这样反复哄几次,野鸡就累得飞不动了,飞机场那么大。野鸡就被我们捉住了。 山本:哎,这么简单就能捉住野鸡? 森下:飞不动了,很容易捉的。还有白颜色的乌鸦。 山本:哎,真的吗? 森下:你没见过吗?满洲的乌鸦有白色的。尾巴很长,胸部有一点儿黑色,其他地方都是白的。把巢建在枯树顶上。一到产卵的季节,我们就去掏乌鸦蛋。但是不能吃的。有时候里边都有雏鸟了。山本:啊。 森下:掏蛋的时候,头上的老乌鸦呱、呱地直叫,叫声跟日本的乌鸦一样。另外,还有狐狸,黄色的普通狐狸。捉狐狸也很简单。还有很多松鼠。 山本:怎么捉狐狸? 森下:满洲人的坟墓都是在棺材上填土堆成个土堆。狐狸习惯把窝作在棺材里。狐狸窝有很多出口,逃跑用的。我们就把它捉住。 山本:怎么捉的? 森下:拿个麻袋,把狐狸窝的出口罩住。然后在一个出口里点火,往洞里熏烟。狐狸就会从其中一个洞口窜出来,钻进麻袋中。就是这样捉狐狸。 山本:捉到过吗? 森下:嗯,捉了不少。 山本:捉住后干吗? 森下:狐狸是不能带回去的,我们把它就剥了皮,藏在防空洞里不让别人看见。外出的时候拿到俄国人开的商店里卖掉。 山本:731部队附近有满洲人的坟墓吗? 森下:有啊。从这里通往哈尔滨的路上,沿途有几个村子,我们经常去一个叫五屯的村子的坟地。山本:还是你们几个同伙? 森下:谷口、濑户、芦田。 山本:一次能捉到几只狐狸? 森下:有时碰上一窝连大带小能捉到三只。黄狐狸皮很值钱,红狐狸皮光泽不太好。 山本:狐狸钻进麻袋以后你们怎么办?打死它吗? 森下:是的。咬人呢。麻袋口系根绳子,狐狸钻进麻袋后就把麻袋口系死,防止它窜出来。 山本:有道理。你们怎么剥狐狸皮? 森下:把狐狸吊在树上,从后退的内侧切开,一边剔除脂肪一边剥。剥下来的狐狸皮抹上盐,藏在防空洞里。 山本:啊,拿到哈尔滨的哪个商店里卖掉? 森下:中国人居住区有几家专门收购皮货的商店,很多都俄国人开的。“哈拉绍”,“哈拉绍”就是好的意思,“乌亲哈拉绍”就是最好的意思。 山本:你也懂俄语吗? 森下:当时懂一点点。对方也懂得一点点日语。 山本:一张皮能卖多少钱? 森下:多少钱啦?大约8、9个日元吧。 山本:相当于今天的多少钱? 森下:当时,我们每个月的工资就是十几个日元。 山本:也就是说,你们捉住五只狐狸,就能卖4、50日元。相当不错啊。 森下:拿到钱后,愿意喝酒的人就去喝酒,愿意去妓院的就去妓院。 山本:还去妓院吗? 森下:玩玩儿嘛。 山本:这么多钱,能够好好玩一玩了? 森下:是的。还买些礼品。从哈尔滨卖点礼品寄回家去。 山本:是吗。妓院也是去好的地方吧? 森下:是的。朝鲜妓院,俄国妓院,还有日本妓院,那都可以去。 山本:那个最贵? 森下:啊,还是俄国妓院贵。白种俄国人。接下来是日本妓院,满洲妓院第三。时间都很长,30分钟。能够来2次。 山本:房间怎么样? 森下:房间都差不多。很宽敞,装修得也很好。被子也很干净,叠在柜子里,枕头也很舒服。 山本:有没有你喜欢上的女孩? 森下:还没有到那种程度。我们经常换地方,小孩子们都很好奇嘛。这次去过满洲妓院,下一次就要去俄国妓院。 山本:有没有给你留下好印象的女孩? 森下:啊,有一个日本女孩。她问过我从哪里来的?我说,大分县。她不知道在哪,我又告诉她是别府。她也知道别府有很多有名的温泉。那个女孩是从茨城县来的。 山本:从茨城到那么远的地方,也许是被卖到那里的吧? 森下:好像是。 山本:俄国妓女是不是很漂亮? 森下:很漂亮。也是各有所爱。店里都有照片,下面写着年龄。自己挑选,选好了后,有人带你去女孩的房间。 山本:有没有俄国妓女和日本妓女在一起的店? 森下:也有在一起的店。但是俄国妓女一般只在俄国妓院。 山本:在什么地方? 森下:从中国人居住区往松花江边走,向右拐,里面这条路上有2、30家店。 山本:酒吧在什么地方? 森下:我不太喝酒,对酒吧的事情不太清楚。但是,好吃的饭店到处都是。 山本:啊,你们大白天就干那种事儿啦? 森下:是的。 山本:狐狸给你们带来的利益我明白了。野鸡怎么捉? 森下:野鸡能吃的,很好吃。生吃也很好吃。捉住后,为了不让它跑了,把它翅膀的羽毛折过来,这样它就绝对飞不起来了。我们把野鸡带回去,在宿舍后面的地里炖熟,偷偷地带回来,在食堂里吃。 山本:松鼠也捉到过吧?能吃吗? 森下:不能。也是卖皮的。但是卖不了多少钱。 山本:松鼠怎么捉? 森下:松鼠是钻洞的,所以还是点火,用烟熏。满洲的松树比日本的松鼠大,站起来有这么高。 山本:你们捉狐狸,捉松鼠是没被咬过手吗? 森下:咬过。很痛的,皮会被咬破的。狐狸钻进麻袋里还活着,顶着袋子拼命往外逃,有时会从麻袋里逃出来,夹着尾巴嗖地一下就跑了。绝对不可能再捉住了。被狐狸咬了手,手会出很多血。我的左手被咬过。我们有时候从火药库偷点子弹出来,枪都有,三八式步枪。我曾经偷出来30多发子弹。 山本:行吗?偷子弹? 森下:肯定不行的。但是也没人查。要是被发现,肯定要挨收拾的。以前有人把枪弄坏了,被班长训斥。 山本:你们到什么地方射击去。 森下:到飞机场那边,骑马到很远的地方,防止枪声被人听到。 山本:你刚才也说到过马的事,随便骑吗? 森下:动物班





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 楼主| 发表于 2016-10-21 19:13:24 | 显示全部楼层
有个马棚。平时也没人遛马。我们就对管理员说让马运动运动。这样的话,管理员就同意了。还告诉你牵哪匹、哪匹马。但是,石井阁下的马是绝对不能骑的,被人发现那可不得了。 山本:有鞍具吗? 森下:有啊,但是我们都习惯了骑裸马。 山本:你们用枪打什么东西? 森下:也不打什么东西,就是想着地平线方向平射。有时到高粱地里射击,子弹穿过的地方高粱都被打断了。就是想感觉一下射击的快感。 山本:不打狐狸什么的吗? 森下:狐狸可不好打呀。根本打不着。我们就是想放松一下精神。手枪的声音比想象的要小,离远一点的话,听到的就是啪、啪的声音。射击的时候会感到很少的后坐力。在部队那边根本听不到的这里枪声。 山本:几个人一起去射击? 森下:啊,有6、7个人的时候,也有2、3个人的时候。回来的时候怕班长检查枪支,所以就让新生把枪擦干净。我们还去偷西瓜和香瓜,西瓜地离我们的驻地很远,地里有个看瓜人的小屋。我们到地里吃个够,看瓜的人发现了就追我们,谁呀?谁呀地大声吆喝。我们就拼命地逃。香瓜和西瓜的味道很不一样,很好吃。比日本的香瓜大多了,味道同甜瓜差不多。 山本:这也是在你以前说过的五屯村吗? 森下:对,五屯村。村子里有卖煎饼的,满洲人常吃的一种食品。把苞米面和成糊状,在大铁锅上刷上油,把苞米面糊薄薄地摊在上面煎熟。然后卷上大葱、大酱吃。第一次看到黄颜色的煎饼时还以为是用鸡蛋做成的呢,感到很不可思议。煎饼很薄,卷起来吃很好吃。 山本:多少钱?贵不贵? 森下:多少钱啦?我们通常都是实物交换,我们用肥皂、袜子等换吃的东西。你在哈尔滨看到过夕阳吧?哈尔滨的夕阳那么大,印象很深啊。有这么大个儿,在地平线上。到了晚上五屯村和其他村子里有人打信号,很能是间谍。宪兵队就开着车去抓,有时候去十多台车。但是,等车到了人早就跑了。 山本:平房是个什么样的地方? 森下:有6、70户人家。都是满洲人,还有几个小店。 山本:平房经过平房的铁路不是南满铁路吧? 森下:对,不是通往大连的干线铁路,是一条什么支线来着。从平房有一条专用线到731部队。 山本:平房比五屯村大吗? 森下:大一点儿。虽说不是什么城市,还算是个比较大的居民点。有理发店,也有商店。还有一个旧货市场,大都是偷来的东西在卖。如果你发现你的什么东西没啦,到那个旧货市场去找肯定能发现。比如说你丢了一只鞋,到那个旧货市场一看肯定有人在卖那只鞋。你要是一发火,问他你胆敢偷鞋,他马上就会说,那还给你还不行吗? 十二、寒冷的满洲 山本:听说那边冬天的跳蚤很多。你们去的时候是几月份? 森下:9月份。正是跳蚤开始繁殖的时候。我们进了少年队以后被咬得够呛。一下课我们就在壁炉前脱下衣服找跳蚤,衣服缝里一堆一堆的。壁炉边上有个铲煤的铁铲,休息时间长一点的话,我们就把铁铲烧得通红,把捉住的跳蚤扔在上面,发出啪唧、啪唧的声音,我们管它叫烤鱿鱼。 山本:冬天吗? 森下:跳蚤特别耐寒。零下30多度也冻不死。跳蚤就怕热,用蒸汽杀菌的办法很容易杀死。 山本:少年队的床是什么样的?2层的? 森下:不是,跟军队的一样。是单张的,头顶上有一个架子,一些换洗的衣物放在上面。 山本:私人物品放在哪里? 森下:从内地带来的东西,还有分给个人用不了剩下来准备寄回家的东西,如肥皂什么的都放在仓库里。仓库里有自己的箱子,宿舍里不能摆放个人用品,那是共同生活的空间。 山本:现在,医院的床都有个帘子简单遮挡一下,你们的床没有那种帘子吧? 森下:没有。 山本:冬天冷不冷? 森下:冬天?不冷。在屋里穿一件衬衣就行。但外面很冷,零下30多度。被褥都是军用毛毯,冬天用的毛毯很后,上边带个被头。 山本:睡觉的时候穿这背心和短裤,还是穿个遮羞布? 森下:冬天都穿线衣线裤睡觉。晚上壁炉烧着火。夏天很热的时候可以打开窗,有纱窗,蚊子进不来。当地的蚊子个头很大,有时会钻进屋里,我们就点上蚊香熏蚊子。门上的铁把手都要用绷带缠起来,否则冬天湿着手开门会被冻上,最需要注意的是,手被冻上时不能着急往下拉,反而要紧紧地握住,然后往手上浇水,用水溶开手上的冰后,慢慢地拉下来。
十三、销毁证据 山本:そ那么,你第一次感觉到这事儿有点儿奇怪是在什么时候? 森下:到了八月份,什么变化也没有,跟往常一样。但是在8月13日的早上。 山本:13日! 森下:我正准备去总部上班,总部的警卫兵站在门口处,我走过去一看,右边总部前面的广场上挖了一个很大很大的坑。 山本:那个大坑以前没有吧?是夜里挖的吧? 森下:好像是。以前说过的,那是每年的1月1日聆听训示的地方。 山本:坑很大吗? 森下:很大,有这个房间的一半那么大。 山本:很深吗? 森下:不算太深,大约1米50左右。有人在那里烧什么文件。军服人员、士兵、下级军官等在那里一边撕破纸张,一边检查燃烧是否完全。 山本:军医们呢? 森下:军医一个也没有。当时是8点40分左右。规定是九点钟之前必须到总部上班。我在那里跟着排队准备进去,路过岗哨的时敬了一个军礼。突然站在岗哨的士官走了出来说,站住。我就停了下来。那个士官对我说,日本战败了,少年队先回去待命。我就赶紧回到宿舍。过了一会儿传令兵传来命令,说现在要撤回到内地去,要大家做好准备。 山本:这么突然,你当时的感觉是什么? 森下:高兴啊。能回家啦。常常想回家,终于可以回去啦。大家都很高兴,一边跑一边欢呼要回家喽,要回家喽。把自己的私人物品整理好以后,一些要好的朋友说要仓库看看,我们就推着手推车一起去了仓库。 山本:仓库有多大? 森下:挺大的。跟那个大楼那么大。过去这里是官员们才能来的地方,不让少年队进来的。仓库里有很多各种各样的日用品,我们3个人推着一辆手推车就进去了。看仓库的只有两个人。 山本:平时看仓库的有多少人? 森下:15个人,至少是10个人以上。里面有许多好吃的东西。 山本:要买吗? 森下:不用买啦,拿就行啦。看仓库也同意了,拿吧、拿吧,都拿回去吧。还有很多服装,将校服也有。我们去了两趟。 山本:你和谁一起去的。 森下:还是我们那帮人。有后藤、谷口、小笠原、和田、佐藤和我。佐藤现在就住在附近,以前在大分铁路工作。 山本:然后呢? 森下:总部下来命令,要求少年队每各班出10个人帮忙。 山本:什么时候的事儿?命令是几点钟下达的? 森下:命令是10点到11点之间下达的。我们推着车回来后不久就来了。 山本:你们班出了几个人? 森下:出了20几个人。班长说谁愿意去,大家都举手了。 山本:去哪里帮忙? 森下:总部。在总部的三楼。哪个房间记不住了。将校们说日本战败了,请大家帮忙做一些重要工作。根据上级的命令,要迅速、彻底的完成这些工作。据说发出命令的不是少校、中校一级的人物,而是个相当大的大官。 山本:不是柄泽少校啊,是军人吧?不是军医? 森下:是军人。值班军官是一个少尉。不一会儿,来了一个军服人员的高官和一个高级军官,走进关押“丸太”的小楼。 山本:一共进去了多少人?去关押“丸太”的小楼。 森下:80到100人吧。我们进去的时候,门都打开了,第一次看到房子的内部,吓了一跳,里边的人全都死了。 山本:死了?都死在房间里了?能不能谈一谈你第一次看到关押“丸太”的房间的印象? 森下:走廊很长,并不是两边都是牢房,牢房在一侧。牢房外边是一道铁栏杆,里边是一层玻璃,再里边又是一道铁栏杆,三层构造。门是个铁门,带着铁栏杆。门的四周都有密封条,以便冬天保暖。 山本:你们去的是7号楼还是8号楼? 森下:7号楼。 山本:关押“丸太”的房间光线怎样?暗不暗? 森下:很亮的。 山本:关押“丸太”的房间有没有窗户? 森下:有。也是开着的。也有铁栏杆。窗户很高,一共有2扇。 山本:窗户是朝北的吗? 森下:是的。南侧是走廊。 山本:颜色是什么颜色? 森下:是房间里面吗?嗯,褐色,水泥墙上涂的褐色。地面也是水泥的。 山本:有没有床? 森下:没有床,只有个床垫。 山本:厕所呢? 森下:有厕所。在房间的角落里,但是没有门,外面看得很清楚。 山本:“丸太”都死啦,都倒在地上吗? 森下:全都倒在地上。大房间里有7、8个人,也有4个人的。 山本:1层和2层的都死啦? 森下:都死了。 山本:怎么死的? 森下:一看就知道是用毒气毒死的。我们都知道部队首长的房间里有一个控制关押“丸太”的房间的毒气开关,而且“丸太”们的脸色发青,这是被毒气毒死症状。没错的。 山本:那么,你是第一次进入关押“丸太”的房间,以前也问过这个问题,房间里的“丸太”都是裸体吗?还是都穿着衣服?是裸体还是穿着衣服? 森下:我们去的时候都穿着衣服。也许是,上面的人骗他们说穿上衣服放他们出去吧。这是后来的推测,但是,以前我们就知道他们经常这么说。 山本:尸体已经冷了吧? 森下:是的,已经凉了。脸已经变色了。 山本:有女的吗? 森下:当时已经没有辨别的时间了。我们用手握住“丸太”的脚和手,把他们抬出去。 山本:抬到哪里去? 森下:抬到野口班那里。那里挖了一个大坑,我们把尸体扔到坑里。 山本:啊,两个人抬一个“丸太”? 森下:不是,尸体很重,2、3个人是抬不动的。 山本:要抬着尸体走下楼梯。关押“丸太”的房间里有台阶吗? 森下:有啊。当然,不光是我们,还来了许多大人。大家一起把尸体运出去,扔进挖好的大坑里。让我们帮忙就是干这个。 山本:你们只在7号楼帮忙了,没去8号楼吧? 森下:刚开始是在7号楼帮忙。因为我们干得很快,另外7号楼的人也很多,后来就让我们去8号楼帮忙去了。 山本:8号楼也是用毒气毒死的吗? 森下:不是,到了8号楼一看,大吃一惊。有几个“丸太”是被枪击中头部打死的。 山本:8号楼不用毒气? 森下:用了毒气。大部分“丸太”都跟7号楼的一样被毒死了。有二个人是被枪打死的。 山本:能不能讲得详细一点儿? 森下:那二个人脸朝上倒在地上。其中有一个高大的俄国人。额头上有一个小洞,后脑有个大洞,血溅得遍地都是,一看就是被枪击中头部打死的。子弹进去的部位是个小洞,出来的时候子弹裹着血肉冲开个大洞。后来听一直在8号楼干活的少年对朋友说,有人说这里还有一个活着的,宪兵就过来补上一枪打死了他。 山本:放过毒气后还活着? 森下:那个俄国人抓住铁栏杆大叫,“杀了我吧,快杀了我”。宪兵就用枪瞄准他的额头开了一枪。 山本:你到了8号楼的时候还有没有活着的啦? 森下:没有了。抬出来的都是尸体,那时候都死了。 山本:8号楼的尸体运到哪里去?是经过7号楼运出去的吗? 森下:不是,8号楼与7号楼不直接连通。从8号楼出来,先经过吕字号楼,用吕字号楼的翻斗车运出去。 山本:就是说8号楼的尸体需要运到别的地方? 森下:不是,同一个地方。翻斗车从吕字号楼出来,走20多米就到了那个大坑。刚才忘说了,大坑里架着铁棒,像烤肉那样烧烤“丸太”的尸体。 山本:什么意思?把铁棒架在大坑的上面干什么? 森下:是这样的,这是个椭圆形的大坑,坑底下架着铁棒,尸体堆在上面,这样燃烧更完全,因为下面有空气通过,火很大。真是聪明啊。 山本:啊,我明白了。这样尸体就不会直接落在火上,就像烤肉一样。明白了。这样的确会燃烧更完全。大约少了多长时间? 森下:嗯,花了不少时间啊,大约有4、5个小时吧。 山本:中午饭你们也没吃? 森下:发了面包。在总部稍稍休息了一会儿。一直干了3个多小时。最后,把留下来的所有东西都搬到走廊出来,把装在大桶里的酒精浇了上去,不是汽油。 山本:怎么浇的? 森下:在大桶上捅个洞,一个人拎起一个,倒过来往上浇。房间了也浇,走廊里也浇。我们都穿着工作服和长筒靴,没戴口罩和眼睛。浇完以后同时点火。 山本:关押“丸太”的小楼是木结构的吗? 森下:不是,但是被褥等可燃的东西很多。 山本:尸体也是这么烧的吗? 森下:干活的不光是我们,军官们都参加了,有好几十人呢。尸体是浇上柴油烧的。 山本:烧过有没有留下人骨? 森下:留下了不少。 山本:点火时间大约在几点钟? 森下:嗯,已经是下午了,4点半左右,也许是5点钟吧。天空很晴朗,那天有点闷热。 山本:森村诚一又写了一本名叫《人的条件》的小说,里面说墙上写着血书? 森下:墙上是有血书。写着“打死”。 山本:什么意思? 森下:中国话,杀死你的意思。还有俄语写的东西。有2、3个房间里都有血书。 山本:字体很大吗? 森下:汉字有手掌那么大。俄语我不太懂。还有血书写着,“你死了好”,“小鬼子”等。 山本:后来呢? 森下:这一切结束后,我们就回到了少年队。班长让我们做返回内地的准备,吃过晚饭后我们把上面写着731部队的书和个人用品全部处理掉,就是烧毁。然后就等着回家了。 山本:那天晚上,你们睡得怎么样? 森下:嗯,那天感觉到很累。 山本:几点熄灯的? 森下:9点。 山本:熄灯之前大家说了些什么? 森下:啊,你们听着,回去以后保持联系,做个通讯录啊。大家都兴奋得不得了。此外脑袋里想的都是带点什么礼品回家。好吃的东西,香皂、毛巾什么的。 山本:那些日子都成为了过去。第二天呢? 十四、撤退 森下:第二天的几点钟啦,记不清了。13日早上,全体队员都带上自己的东西,沿着专用铁路线离开了。当时火车已经在那里等候着,是一辆货车,带盖的货车。十几辆车连在一起。各班按照事先分别登上了火车。车厢下面装满了各种货物,有大酱、酱油还有酒,这些货物上铺着榻榻米,我们就睡在榻榻米的上面。 山本:什么时候发车的? 森下:时间记不得了。那时周围是一片火海。总部大楼烧得通红,火焰发出轰轰的声音。时而还可听到子弹炸裂的声音,弹药库也笼罩在熊熊大火之中。 山本:军服人员和家属也上了火车吗? 森下:军服人员和家属,我谁也没有见到。不知为什么,看不到一个家属。也许是他们分别登上了各自的车厢吧。 山本:大火烧起来的时候,你们睡觉的时候没有注意到吗? 森下:晚上?注意到了。总部大楼是和关押“丸太”的小楼一起被点燃的。已经烧了一个晚上了。点火的那一天,8372飞行大队在这里。后来,来了几辆消防车,


十五、731部队的军医们 山本:这一段时间把四年的事情大致地讲了一奖。接下来想请你讲一讲731部队的军医们的事情,他们有没有什么有趣儿的事情。 森下:好吧,那就讲一讲军医和技术助手的事儿。 山本:你谈到过技术助手和技师,他们有什么不同吗? 森下:技术助手就是助理,同实习生差不多。技师属于教师了。 山本:以前听你谈到过天野教授的事儿,天野教授是正式教师吗? 森下:是的。每次都坐飞机来。一年要来3、4次,天野教授经常和一些叫不上名字的年轻老师一起来。此外还有小板老师。神永教授也有印象。 山本:小板老师是哪的人? 森下:嗯,应是山形县人,没错是山形县的人。哪个学校的老师我就不知道了。 山本:天野教授是京都人吧? 森下:是的,天野教授是京都人。还有一个从千叶县来的。一般都不是一个人过来,总是4、5个人一起过来。他们都是在内地集合后一起过来的。 山本:天野教授给你留下了什么印象? 森下:很和蔼。长的很瘦,但很帅气。36、7岁的样子。身着军服人员的服装,穿一双深红色的长筒皮靴。非常精神。 山本:大家的长筒皮靴都是深红色的吗? 森下:不是,普通军服人员的是黑色的。军服人员中判任官以上的都是深红色的。天野教授是校官级,当然是深红色的啦。军人中只有尉官以上的才能穿长筒皮靴。佩带军刀也是这样。 山本:也佩戴军刀? 森下:谁?你是说天野教授?他不佩戴军刀。 山本:那么,他们下了飞机就去731部队吗? 森下:是的。坐飞机过来,还带着馅饼。首先去731部队向部队长官报告。据说都是一些要在731呆几个月或几天,做什么实验,想用“丸太”做什么等等。 山本:那么,天野教授在731部队呆了多少天? 森下:10天,最少也要呆10天到15天。宿舍都是特殊准备的。天野教授经常过来。 山本:也就是说住在731部队,做自己的实验。你有没有同他一起工作过? 森下:嗯,有一、二次帮助他打扫过用过的“丸太”。每次他都对我们说,辛苦了。你们还很年轻,尽管很辛苦,一定要努力呀。我只帮他做过1、2次,但是每次都跟我打招呼。 山本:他做的是什么实验,你还记得吗? 森下:不太清楚,但是也没有观察。 山本:小板老师怎么样? 森下:很严厉。小板老师非常严厉。据说是转业军人,过去是陆军少尉或中尉。对了是中尉军医。 山本:多大年纪?长的啥样? 森下:四十四、五岁,有点发胖,身高有1米65左右。 山本:还有,神永教授是个什么样的人? 森下:不知道是哪里的老师。年龄有45岁左右,瘦瘦的,长的很高,戴个眼睛,和柄泽少校的关系很好,看上去很好。神永教授也很和蔼。还穿着白大褂到我们培养细菌的地方来参观过。 山本:你帮过神永教授做过试验吗? 森下:没有,没帮过。 山本:因为这些老师过来,你们的工作有没有发生什么变化? 森下:没有。 山本:你们有很多班吧?柄泽班是第四班。第一班的笠原班的笠原老师怎么样? 森下:他长得很高。是个技师。没那么严厉。一般从部队转业的人都很严厉。到了45至50岁的转业年龄时就成为军服人员了。 山本:田中呢? 森下:田中是个少校,听说过他,但是想不起来了。好像是研究昆虫的。 山本:吉村呢? 森下:他我还记得。是个技师。冷冻实验就是他做的。我们也被他做过试验? 山本:你们也被他做过实验? 森下:房间里有个这么大的水槽,水有齐腰深,里面放上冰块,然我们把脚放进去,看看能忍耐多久。结束的时候发给你羊羹啦,并干什么的。 山本:一定很冷吧? 森下:钻心地冷,就像被切断一样的感觉。 山本:你们忍耐了多久? 森下:嗯,15分钟左右。后来一点脚感觉都没有了。 山本:用“丸太”做的实验室就没那么简单吧? 森下:是的。把他们身上浇上水,然后放到外边去。 山本:这个吉村你还记得吗? 森下:记得。吉村先生是很严厉的,特别是对待研究非常认真,是个真正的老师。年龄呢,我们年轻人看上去好像是上了年纪,有50多岁吧。个子很高,长得很瘦。 山本:是个不容易结束的老师? 森下:那倒不是。他对冻伤的研究非常重视。好像水平很高。 山本:你没被冻伤过吧? 森下:没有,我们都是在屋子里工作。如果冷得受不了了,就会停下来的。每个人都有个图表。 山本:接下来是高桥板,高桥少校? 森下:啊,高桥少校很和蔼,虽然他是个军人。年龄有50多岁,个子不高,戴个眼镜,胖胖的。 山本:石井技术助手呢? 森下:他,我记不得了。他经常在关押“丸太”的地方。啊啊,他是石井阁下的哥哥。 山本:江口技师还记得吗? 森下:…… 山本:凑技师呢? 森下:…… 山本:冈本? 森下:他是放着很多显微镜的那个班的。 山本:还记得冈本先生吗? 森下:他呢,不戴眼镜,中等身材,经常批评我们,别用两个眼睛看!别用两个眼睛看!我们那帮小孩,闭上一只眼睛的话,总是看不清刻尺,经常出现计算错误。 山本:你进入柄泽班之前,经常挨他的批评吗? 森下:进入柄泽班之后经常挨他的批评。他也指导别的班,每周1次,有时2周3次。 山本:石川班还记得吗? 森下:记不得了。 山本:内海呢? 森下:嗯,想不起来了。 山本:田部班呢? 森下:经常听说,但是,想不起来了。 山本:野口少校呢? 森下:他长得很瘦,留着胡须,50多岁,戴个眼镜。有点神经质的感觉,挺严厉的。很少开玩笑。当然,我们也不敢跟少校开玩笑。 山本:八木泽技师呢? 森下:只是听说过而已。 山本:太田上校呢? 森下:他有时遇见过。有一点胖,小鸽子,没留胡子。 山本:菊池少校呢? 森下:他很和蔼。戴个眼镜,没边的那种眼镜 山本:西中校呢? 森下:他是少年队的队长。很胖很胖的,没留胡子。 山本:园田上校? 森下:他是西中校的后任。西中校在我们入队后的第三个月离任,之后再也没见过他。 山本:园田上校是个什么样的人? 森下:他也很和蔼。经常说不许私自惩罚学员。个子不算高,圆脸。他是我们的直接最高长官。 山本:他不是那种随便发火的人? 森下:他就像我们的父亲和兄长一样。 山本:是不是班长这一级别的最可怕啦? 森下:那还要数高阶班长。他对自己班的人还算不错,但是对别的班的人就用木头枪打人了。使劲地打,很痛的。 山本:啊,这本书上也是这么写的,说所有人都挨过他的打,是真的吗? 森下:真的。嗯,记的是昭和18(1943)年的一天,熄灯前。 山本:是你们学年的同学吗? 森下:是高一年级的学员。他们在最里面的屋子里大声吵闹,高阶班长突然冲了进来,关上电灯,“混蛋,混蛋”地大骂。也不知道是谁干的,有人从总部那里偷偷地带回来一些跳蚤,没有细菌的,放到别人的床上,瞎胡闹。 山本:高阶班长是个什么样的人? 森下:个子不高,枪法很准,剑术三段。现在是秋田农协的会长。总说要参加房友会的活动,但一次也没来过。可能是怕我们打他吧。近几年偶尔出来见见我们。今年有75、6岁啦。身体还很健康。 山本:据说,经历过战争的人战后经常做梦。你有没有梦到过什么? 森下:是呀,我经常做关于“丸太”的梦。那个抱着孩子的俄国百种女人,还有那个越南人总是出现在我的梦中。经常从梦中惊醒,吓得一身冷汗。每一次都在想,自己干了不少坏事。罪恶深重啊。 山本:啊,你们当时的地位很低,只是服从命令而已。那些发号施令的军医战后怎么向当时的所作所为呢?但是,当时你有没有想过自己是在干坏事儿? 森下:命令必须执行呀。习惯成自然了。 山本:对于那些死刑犯是怎么想的? 森下:他们都是作为消耗品被送进来的嘛。 山本:是啊,人们无法用战争结束后的感受对战争时期的行为定罪啊? 森下:是的。战争结束前,石井阁下等大官都坐飞机回去了。 山本:柄泽少校是怎么被捉住的? 森下:嗯,不知道他为什么要留下来?他被扣留在哈巴洛夫斯克,后来回到内地,不久就死了。后来他的夫人参加过我们的房友会。他活着的时候没能加入到房又回来。 山本:房友会是只有少年队参加的会吗? 森下:是的。刚开始的时候只有少年队参加,后来规模逐渐扩大,现在成为731部队全体成员参加的会了。遗属们也可以加入。 山本:换个话题,你在731部队时有没有胜过什么病呀? 森下:生过病。盲肠炎。在哈尔滨的陆军医院南楼住过院,动手术切除了盲肠。8、9月份的事儿。第一次动手术,切除盲肠后,咳嗽也痛,上厕所的时候,在走廊上都是这种姿势。没注意对面过来个女人,是护士长,因为没敬礼,被训斥了一吨。当时的护士长都是陆军准尉或少尉。见到的时候不这样立正敬礼时不行的。 山本:除此之外,还有没有住过院? 森下:我不常生病。但是被关过3天小号禁闭。 山本:为什么? 森下:记不太清楚了。好像是有个同学说肚子饿了,让我帮他那个饭团子过来。少年队的旁边有块儿地,那里堆放着许多煤,是那种部队用的精煤,这种煤能够自然出火。 山本:自然出火? 森下:白天温度很高,煤很热,到了晚上的时候就会发出蓝色的火苗。 山本:有女性队员吗? 森下:有。他们不参加试验,柄泽班的女队员主要是打扫显微镜。 山本:书上还有关于“丸太”暴动的描写,发生过“丸太”暴动吗? 森下:我在的时候没有发生过。但是,我们去的5、6个月以前,听说过发生过暴动。“丸太”们在中庭里搭起了人梯,一层一层地,据说都被机关枪打死了。但是,吕字号楼是爬不上去的。3楼以下没有窗户,4楼有窗户,但是都有铁栏杆。屋顶上还有雨沓伸出来很长一节。 十六、回国 山本:最后,请你谈谈回到日本以后的事情。 森下:昭和23(1948)年11月我被关进朝鲜的兴南收容所。在那里等待遣返船的到来。大约半年以后,来了一艘叫做兴安丸的遣返船,我们就上了船。当时不知道自己能否真的回到日本,担心是不是会被送到海参崴去,直到登上日本的土地之前一直都惶恐不安。船在海上走了3、4天,后来到了佐世保。那是昭和24年6月份的事儿。在佐世保登陆时,看到海边有很多没见过的军人,脸长的跟日本人一样,穿着笔挺的咖啡色军服,跟他们





日语也没什么反映。感到很奇怪,后来才知道他们是美籍日本人。有很多很多的人。 山本:还记得船到了佐世保港的事情吗? 森下:在喷散了DDT和注射了预防疫苗的地方遇到了鹿儿岛县出来的老学员濑户口佑雄。他喊,喂,这不是森下吗?刚回来呀?吃了不少苦吧?在佐世保港的检疫所他还给我拿来了一个盒饭。后来我们一直保持通信联系。现在他已经死了。他也是一个非常老同学。后来我坐上去大分的火车,火车一到大分站,我朝着新川方向看去,看到的是一片废墟。早上8点半左右到了家。我母亲看到我就哭了。 山本:回到家后令你感到吃惊的是什么? 森下:能够活着回来令人感慨?八路军占领安东(丹东)时,接收了陆军医院。有一对中岛(大分市中岛)来的姐妹在那里做护士,罗雷(八路军军医,当时是森下的上司)要把她们一起带走。我就跟罗雷交涉,希望让她们回日本。罗雷说不行,要回也只能回去一人。那对姐妹就说姐姐先回去吧,妹妹先回去吧,最后也决定不了谁先走。我就跟罗雷说,我一辈子都不走了,你就让他们姐俩一起回去吧。我回来以后,因为住得很近,她们来到我家向我表示感谢说,在中国承蒙森下先生多多关照。我跟她们说,后来跟着八路军也不知去了哪里,稀里糊涂地就当上了军医,大家听了都哈哈大笑。然后就回去了。 山本:后来呢? 森下:回来后有一段时间也没有正经工作,干了不少坏事儿。在大分提到森下没有不认识的。南大分有个县议员,也是个黑道上的人。他们的团伙与我们争斗,我整天拿着把日本,藏在裤子里,在街上横逛。经常注射毒品。不知不觉地就成了医生,帮别人打针混口饭吃。我为了生活也经常去买毒品。后来洗手不干了,在大分找了一份工作,但是干了不久老板就死了,我就到鹤崎那边又找了一个工作。换了不少工作。但是,如果有了份工作,我还是能够认真干的。 山本:你同731部队回来的人现在还有联系吗? 森下:有联系。大分县的人的电话我全都有,别的县的人也经常联系。 山本:想不想在去731部队看一看? 森下:想啊。临死之前真想去那里再看一看。也没什么特殊的要求就是想去那里看看。作为曾经在731部队干过的人,我真想在那里被枪毙,只有这样才能洗清自己的罪过。 完 1991.12.22. 纪录:山本真 http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 相关参考文献: 1、『悪魔の饱食 新版』 森村诚一 1983年 角川文库 ISBN 4041365651 2、『731部队』 常石敬一 讲谈社现代新书 ISBN 4061492659 3、『昭和史の谜を追う (上)』 秦郁彦 文春文库 ISBN 4167453045 4、『検证 旧日本军の「悪行」——歪められた歴史像を见直す』 田辺敏雄 2002年
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